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文学
戦乱の中冴え行く思索
書籍・作品名 : 時間
著者・制作者名 : 堀田善衛 岩波現代文庫 2015  
三好常雄(すすむA)   61才   男性   





逸見庸氏は、本書の読者は1990年代の「歴史修正主義」跳梁跋扈の時代に孤高を保って、世論の激しい攻撃や、やんやの喝采を浴びることもなく、息を詰めて「こっそりと『時間』の頁を繰った」という。それから30年後、息をつめて頁を繰った私も文字通り打ちのめされた。

日記体小説である。書き手は陳英諦(37歳)という南京に住む中国人で海軍部に勤務する文官。司法判事の兄は日本軍襲撃の直前に漢口に移動し、英諦は家を守れという命令で南京に残る。彼は占領下南京を記録する日記を書き始めるが、事件に巻き込まれ中断。半年後に再開された日記はその間の出来事を回想風にして記す等、手の込んだプロットになっている。

主人公の命運は表層レベルでは手に汗握るストーリーの連続だ。1937年12月3日、南京は完全に包囲され、いつ日本兵が現れるかと緊張が続くなか、4日には先に占領された蘇州から従妹の楊妙音が逃げ出してくる。6日には隣家の大佐が部下を捨てて逃亡、主席(蒋介石)も飛行機で脱出したとの報が入る。指揮官を失った兵たちは軍服を脱ぎ捨て市中に紛れ込む。13日ついに日本軍が屋敷に乱入。英諦と身重の妻と5歳の息子、妙音の一家4人は捕えられて近くの少学校に連行される。収容男性の額と掌が綿密に検査され、兵帽の跡や銃の引金の「兵隊たこ」が見つかると脱走兵として即射殺される。14日夜日本兵の乱稚気騒ぎの中、英諦等4人は脱出するが、離れ離れになってしまい、英諦一人は翌朝、通りがかりの西洋人に助けられヨーハン(ジョン)・ラーベ等が開設した「安全地帯」に逃げ込む。ここにも日本兵が押し寄せ、英諦は先の逃亡の際に出来た傷を理由に中国兵として連行され、銃殺にかけられる。

「捕虜」は100人ずつ束ねられて機関銃で射殺されるが、発射の瞬間、英諦はクリークに倒れ込む。同じ様に九死に一生を得た仲間3名と廃屋で10日間過ごした後、街に出た途端、今度は日本軍の荷物運搬人として徴用され4か月働く。家に戻れたのが翌年5月10日、占領初期の狂気に満ちた虐殺は終わっている。自宅は日本軍の情報将校・桐野中尉の住まいになっている。、英諦はこの屋の雇人だったと偽って、中尉の「下僕兼門番兼料理人」になる。ここから日記が再開されるが、ここまでが前半。

実は英諦には秘密の業務がある。自宅地下室から毎夜漢口政府に向け、占領下の南京情報を送信しているのである。市内に二重スパイのKをはじめ5人のスパイを放っている。しかし市民を置き去りにして逃亡した漢口政府高官に対しては、兄も含めて軽蔑しか湧かない。

こう書けば、ハリウッドだが、もちろん本書は娯楽小説ではない。私が打ちのめされたのは次の二つ。一つは主人公が見た南京虐殺の生々しすぎる描写。もう一つは主人公が危機の中で考え続ける人間観である。

南京では。民衆が無造作に殺されてゆく。「無造作に」は殺す側の日本兵であって、理不尽に死を賜る中国人の苦しみ、怒り、悲しみは読むに堪えない。その総数はおよびもつかないが、主人公が述べるのは、「死んだのは、そしてこれからまだまだ死んでゆくのは、何万人ではない、一人一人が死んだのだ。一人一人の死が何万人にのぼったのだ。何万人と一人一人、この二つの数え方の間には、戦争と平和ほどの差異が、新聞記事と文学ほどの差異がある……」という個々人の命の価値の大きさである。

もう一つ英諦が執拗に考えるのは、人間という存在について。人間という訳のわからぬものを考えるのに「小説的になってはならぬ」と何度も自省する。達観してはならぬ。「私に一番必要なものは、子供を殺されても、強姦を目前にしても、忍耐強く、諦めて、ではない―、そして規則正しく大地を耕すあの農夫たちと肩を並べうる、強く、かつさりげない、日常性なのだ」という境地に達する。

日本兵に対する思索はさらに強まる。「彼等の東洋解放というスローガン、それはそれでよろしい。しかしそれがどんなに厳しい理想であるかがわかったときには、彼らは身を引くだろう」。史上何度も易姓革命の動乱を経験し、それにしかと対処する日常性を維持してきた中国人像と比べて、万世一系の天皇神話に甘え、冷厳な世界を見る目を持たないひ弱な日本人像が比較されていると読める。

英諦にもこの先どんな危険が待ち構えているやは知らない。日本兵にレイプされ、妊娠させられ、腹を叩かれて流産させられ、梅毒までうつされて満身創痍になりながら、八路軍の密偵の青年に助け出されて、英諦の元に帰ってきた妙音が、上海の外国病院で療養しよう勧められるのを、「それではすべてが幻想になってしまうと」と拒否して現場にとどまる、という話も日常性の重さを示して秀逸だし、若い二人がどうやら愛し合い始めているという観察にも希望がわく。中国人の「質的変化」は確実に始まっている。






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