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文学
落ちこぼれ自嘲者がみた「二番底」
書籍・作品名 : 赤目四十八瀧心中未遂
著者・制作者名 : 車谷長吉 文藝春秋社1998.1  
すすむA   58才   男性   





今話題になっている中年の「引きこもり」脱出のきっかけになる一冊になるかも知れないと読んだ。もちろん脱出レシピではない。

生島与一。一流大学を出て広告会社に勤めたが、これが自分の生き方と思えず悶々としている男である。高度成長期の誰もが中流生活実現のために奮闘しているのにも違和感がある。そんな生活を疑いを持たずに期待している恋人とも別れ、20代の終わり、会社を辞めて引きこもりになる。  

明白でないが彼には、「物書き」になるという夢があるらしいが、書く言葉のすべてが上っ滑りしていると感じて挫折する。広告会社という虚語の世界もトラウマになっていると察せられる。このことから生島を作者の車谷長吉だとする読みが普通らしいが、それはやめよう。小説は小説、作者は作者だ。

したがって彼の悩みは多分に「形而上学的」なものである。自分を人生の落伍者として曝すために尼崎に流れ着いた与一だが、その吹きだまりは、さらに「二番底」とも言える場所だった。そこに住む人々は「落ちこぼれ」を気取っているのではなくて、生まれたときから落ちこぼれを運命づけられている。

与一が貰った仕事は、木賃アパートの一室に一人閉じこもって焼鶏の串を打つこと。落伍者の境遇にぴったりだが、住民たちは直ぐ、与一を独りよがりに悲痛がっている男と見抜き受け入れない。与一にも彼らの隠微な生活実態は皆目見当がつかない。ちょっとした「使い走り」を頼まれても、その中身は明かされない。与一は好奇心とのけ者にされたくない一心で「危険な」手伝いを引き受けるのだが、住民は自分たちより「上流」に属すると診ている与一を、自分たちの危ない生業に引きずり込まないように細心の気配りをしている。

そんな与一だが、ついに在日朝鮮人のアヤと関係を持ってしまう。与一の雇主のセイ子ねえさんは、「誰にも言うたことないが」自分は元パンパンだったと打ち明けるのだが、その彼女は与一がアヤに見とれていると、「言うとくけどな、あの子、朝鮮人やで」と侮蔑的な言葉遣いで言う。二番底の下にさらなる底があると気づかせる警告だ。だが二人の恋愛はそれぞれの境遇を乗り越えてしまいたいという思いを露わにして激しく切ない。

アヤは刺青師の堀眉さんの囲い女で、懇願されて背中に毒々しい「迦陵頻伽」を彫っている。堀眉さんは刺青した後の女には興味がないという。堀眉さんの刺青は「二番底」に生きる人々のスティグマ(焼き印)を意味する。焼き印されて逃げ出す術はない。

アヤにはやくざの兄がいる。「グレート・ギャツビー」を思わせる人物設定だ。今よりましな生活を切望しているがその手段はない。組の金に手を付けて殺されるか妹を売るかの選択を迫られる。切羽詰まったアヤは与一と心中しようとするが、兄への思いと異世界の与一を巻き込むことをあきらめ、シャブ漬けの売春業しか待っていない博多に向かって旅立ってゆく。アヤが与一の貯金通帳を巻き上げるシーンには、これまでの二人の関係を、金が介在する「売春」段階にまで引き戻すそうとする、与一を思いやる究極の愛が感じられる。自分の本名は李文蛍、真田と呼ばれている兄は李正令だと打ち明けるシーンも涙ぐましい。アイデンティティを隠さなければ「二番底」ですら生きてこられなかったのだ。

この間、与一はどうしていたのだろう。急展開する状況に対して無防備である。だが、「二番底」の人々が交わす言葉には、浮わついた中流生活にはない命を掛けた「真実」があると気がつく。心中場所に選んだ赤目四十八滝からの帰路、突如として途中下車してしまうアヤを追いかけ損ねて、すべての意味を覚醒するのだ。

覚醒しても直ちに更正できるわけではない。セイ子ねえさんから仕事を取られ追い出された後も、4年もの間、関西に身を潜めていたが、「38歳の夏、また東京へ出てきて、ふたたび会社員になった」とある。道のりは長いが、少なくとも彼には再び「落伍者」を気取る気はないと読める。

突き詰めれば、この小説は「下を見て発奮する」といった手垢のついた話をしているだけなのかも知れない。だが与一には世間との糸のような細いつながりがあったと記される。尼崎に来たのは、飲み屋で出会った見ず知らずの男の口利きであったし、堀眉さんの子どもに石を投げられて瞼を化膿したとき、健康保険証のない彼を治療したのは、昔かすかな関わりがあった京都の医者だった。突然東京から来て、彼を救うのか貶めるのか判らない説教をする知人もいる。彼らが引っ張り「二番底」の人々が押し出したのだ。

もしこの本が「ひきこもり」に示唆するなにかがあるとするなら、まず「家から出てみなさい」だろう。外ではみんながもがいており、その誰かがあなたに手を差し出すかも知れない。






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