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文学
「暗黒の部屋」からのまなざし
書籍・作品名 : 『物質的恍惚』
著者・制作者名 : ル・クレジオ  
千歩一幾   34才   男性   





 英語で書いたものが出版に至らなかったことから、フランス語で小説を書き、華々しいデビューを飾ったル・クレジオ。多文化の狭間で生きる姿勢は、のちの彼自身の転換期を予示するかのようである。メキシコ文化に傾倒し、この研究によって博士号を取得するまでになるクレジオは、難解で詩的な散文から、やがて平易で素朴な散文へと作風を変化させる。『地上の見知らぬ少年』や『海を見たことがなかった少年』といった作品からは、初期の作品とはうってかわり、素朴な眼で自然を見つめた美しい描写が数多く見られる。
 飾り気がないありのままの自己の在り方に至ったのは、ヨーロッパのなかで感じてきた自己の在り方、あるいは文化と自己との軋轢を深く見つめてきたからにほかならない。『物質的恍惚』では、世界は自分が生まれる前から存在しており、自分がそれと同じ「物質」でできている不思議を語る。自分自身が生まれる前の自他身分の状態について、彼はそれを「暗黒の部屋」と呼ぶ。生まれるまでのあいだ、自分はまだ自分として切りだされておらず、無の只中にいる。だからこそ自己は未来を感じさせ、永遠の現在でもあり、太古の昔と結びつく存在だとも言える。それゆえすべては世界に〝あった〟のであり、既知のなかに未知がすでに隠されている。
 このように自己が必然的に、意志とはまったく関係なく切りだされるがゆえ、クレジオはこれを「運命」と呼んではばからない。人間は自己の「倫理」や「諸原理」に従って生きているが、それは自分で選択したものではなく、生来に選択されているものであり、ひとはみなそのような原理に従って生きざるをえない。自己はあくまで実体をもたない全体の一部をなし、私たちはそのような自己の内部に幽閉されている。しかしながら、自己は周囲の「風景」とともに変わってゆく。世界は自己をつくり、自己は世界をつくりだしてゆく。それこそがクレジオが自己を「未完成」の無限だと述べるゆえんである。「形作られたのと同じやり方で、ぼくは形作る」。
 世界が自己を描き、自己が世界を描く。自己と世界とが矛盾的に同一化するとクレジオは書く。「ぼくから由来するすべてのことは、他人たちから来ていた。すべてだ。ぼくの実り多い考えの数々、ぼくの気分、ぼくの嗜好の数々、ぼくの道徳、ぼくの誇り。何一つとしてぼくのものではなかった」。すべてが互いに働きかけ、互いを形づくると考えるとき、「その他人たちというのはぼくの中におり、ぼくを創りだした連中だ」と言うことができる。他者あっての自己であり、また社会によって自己が形成される。その一方で「実のところ、社会というやつ、ひとはそれを自己のうちに蔵しているのだ。すべてがそれによって始まりそして終わり、しかもそれは個人個人の中にしかない」。自己を見つめるまなざしがなければ自己は存在しえない。すべてのものは相反するものと一体不二の関係にある。「たぶん、われわれを彼方へ引っぱる二つの力があるのだ、二つの矛盾する、激烈な力、われわれはその対立をわれわれの精神のうちに模倣したのである」。
 また自己のうちに「暗黒の部屋」が矛盾的に含まれていたように、私たちは現在から切りだされたものであり、私たちのうちに矛盾的に現在が含まれうる。それゆえ現在を見つめることは自己を見つめることであり、自己が包みこむ世界の風景に眼を向けることでもある。「無限なるもの、永遠なるものはここにあり、われわれの前に現存している。われわれの足もとに、われわれの目の前に、われわれの皮膚にじかに触れて。われわれは一秒ごとにそれを感じ、それを味わい、それに触れている」。このように世界をまなざすこと、そして自己をまなざすことはまた、世界から、そして他者からのまなざしによって形づくられることなのだ。「一たらんと欲する者は多なのであり、彼が一であるのは多であることによってなのだ」自己と世界がからみあって互いを形成するさまは、クレジオ文学の基底を成す思想だと言ってよいだろう。






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