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評者◆今野元
「学習」のためのウェーバー研究を総じて否定しているわけではない──問題としているのは、「学習」の病理的変種としての「聖マックス礼賛」
No.2876 ・ 2008年07月05日
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第二部(二八六七号)では、日本の先行研究との関係が論じられているが、一部脱線がある。まず冒頭で次の批判がある。「〔今野〕氏によれば、従来の主として経済学や社会学の分野でなされてきたウェーバー研究はウェーバー「学習」であって、ウェーバーを「分析」の対象としたのはモムゼンただ一人だそうである(今野書一〇頁)」。これは明らかな誤読で、しかも頁がずれている。本書(10・11頁)の表現はこうである。「それまで主に社会学者、経済学者の「学習」対象とされていたヴェーバーを、一人のドイツ人として政治史研究の「分析」対象にしたモムゼンの研究」、「ヴェーバー研究の文献は毎年急速に増え続けているが、彼の政治的言動を分析するのは概ねモムゼン周辺の研究者に限定され、それ以外の業績は(ヨアヒム・ラトカウの浩瀚なヴェーバー伝や、ギュンター・ロートの家族史研究を除けば)基本的に隔靴掻痒なものでしかない」。つまり私はモムゼンの博士論文執筆の背景となったそれ以前の社会学、経済学研究を「学習」と性格付けたに過ぎないのに対し、雀部は私が(今日から見て)従来の社会学、経済学を中心とするヴェーバー研究一般を「学習」と呼んだかのように曲解している。また私は政治的言動を分析するのが概ねモムゼン周辺の研究者だと述べたのに、雀部は私がそもそもウェーバーを「分析」の対象としたのはモムゼンだけだと言ったなどと歪曲しているのである。
(一)①「ロシア政治分析」の「『近代批判的』解釈」が誰のものか「示唆されてさえいない」という批判‥ロシヤ第一革命がヴェーバーにロシヤ文化に対する永続的興味を呼び起こし、ロシヤの一般大衆に対する侮蔑的態度を一変させたというアーサー・ミッツマンのテーゼ(安藤英治訳『鉄の檻』165頁以下)には、日本にも姜尚中(『マックス・ウェーバーと近代』(岩波版)75頁付近)など数多くの追従者、敷衍者がいるが、これは研究者の間では知られたことである。 ②先行研究を「十把一からげ」にせず、個々の相手と「対質」せよという批判‥(「対質」とは訴訟法の用語で、相互の供述や証言が食い違う両者を同時に呼び、対決させるという審理方式(対質尋問・対質審問)を意味し、裁判官など第三者が指導して行うものである。雀部が要求する「対質」とは単なる先行研究との「直接対決」のことであるから、本来の語義からは離れるのだが、ここでは雀部の意図を斟酌して話を進めよう。)本書はヴェーバーの政治的生涯の全般を扱うものであるから、個々的な領域での先行研究との「対質」は実行不可能である。ちなみに当の雀部は、彼が非難する「戦後民主主義」に加担するヴェーバー研究者の牧野雅彦、佐野誠、橋本努、そして折原浩らと、どの程度「対質」しているのだろうか(その意味で折原との対決を促す本紙二八六二号の橋本努稿は至当である)。 (二)私が雀部を「健全なナショナリズム」の信奉者と呼び、ヴェーバーをもナショナリズムの範疇に入れたのは不当だという批判‥「ナショナリズム」が通俗的には非難の言辞であるため、雀部は自分やヴェーバーの立場を「ナショナリズム」の枠外の好ましい何かとして描きたいのである。だが私は(雀部やその典拠であるリッターが採用する)通俗的な用語法からは距離を置いて、「ナショナリズム」概念を意図的に善悪論から切り離している(前書240頁)。私の見るところ雀部の称揚するヴェーバー「公共善の政治学」はどう見てもナショナリズムの一類型なのだが、そう指摘したところで、それは即ち私がヴェーバーや雀部を非難しているということにはならないのである。 (三)national/nationalistischは、本書のように「国民主義的」「国民至上主義的」と訳すのは不当で、従来通り「国民的」「国民主義的」とするべきである。(「ナショナリズム」概念は後者のみに関連するから)ヴェーバーは今野の用語法では「ナショナリスト」ではなく「国民至上主義者」になるはずだという批判‥これも前項と同根である。私は前者も一定方向の主義主張を表すものだから「主義」を入れ、後者は強めの意味で「至上」を入れたのであり、また後者のみならず前者も、「ナショナリズム」の枠内の形容詞であると考えている。ただこの二語は私にとって分析用語ではなく、ヴェーバーの物言いを紹介したに過ぎず、雀部やヴェーバーのように後者を批判して前者を救済するという意図はない。実のところ「国民主義的」「国民至上主義的」という今回の訳語にはそれほど拘りがないのだが、nationalistischを「国民主義的」と訳すのは偏狭な語感が十分に出ないので好ましくないと思われる。 (四)①今野は日本のウェーバー研究など「学習」に過ぎないと見ているという批判‥私はそのような総花的な批判をするつもりなど全くない。私が安藤英治のインタヴューを評価し、公刊したことをご存知ないだろうか(『回想のマックス・ウェーバー』219―220頁)(私の仲介で安藤のインタヴュー・テープに接した『ヴェーバー全集』編集部は、これを「ヴェーバー研究の宝」と絶讚し、早速編集作業に活用すると最近伝えてきた。)ちなみに私は、「学習」のためのヴェーバー研究を総じて否定しているわけではない。ヴェーバーが社会科学者であった以上、彼を先行研究者として扱い、その業績から「学習」しようとすること自体はごく普通の行為で、私自身もそうする場合があると述べたはずである(前書16頁)。また徹底して「学習」するなかから、深い「分析」が生まれるということもありうる。私が問題視するのは、「学習」の病理的変種としての「聖マックス礼讚」、つまり超人ヴェーバーへの敬愛という心理的前提が絶大であるために、自分のヴェーバー・イメージに合わない研究、競合する同業者の研究には逆上して不当なヴェーバー批判と決め付けたり、自分のヴェーバー理解の深さを誇示したりするという権威主義的な振舞である。 ②今野は折原の『経済と社会』研究のように、「ほかならぬわが国で徹底したモムゼン批判がなされていることの意味」を汲み取っていないという批判‥モムゼンの業績で本書が先行研究とみなしたのは彼の政治史研究であり、彼のヴェーバー研究全てではない。政治史研究ではないモムゼン・折原の文献学論争は、様々な意味で敬意に値するものとはいえ、問題領域からすると本書の先行研究には当らないものだと思われる。 ―つづく (愛知県立大学外国語学部ドイツ学科准教授・国際政治史) |
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