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評者◆杉本真維子
野球選手のようなコバエ
No.2923 ・ 2009年06月27日




 夏が近づくと、たまに、飲みものの中で溺れている小さな虫を見る。これまでも仲間が溺れたところを見たはずだろう、それなのに、なんで気をつけたりしないのかな、と、死んでいる虫に言う。
 近所に、お昼時は100人くらいの客がごった返す大人気の中華料理店がある。先日、初めて立ち寄ってみたのだけれど、最後にバイキングの杏仁豆腐をとろうとしたら、銀のトレイのなかにぽつんと黒いものがあった。
 ひっと、首筋に力がはいる。じつは私は虫が大の苦手なので、どんな小さな虫でも、一瞬、身が固まってしまう。振り返ると、私の後ろには誰も並んでいない。それがわかると、変なプレッシャーがかかった。今はまだ、水面を必死に転がって何とか生きているが、ここで立ち去ったら、あと数分で確実に体力が尽きるだろう。それに、次の客に見られたら、すぐに店員に伝えられ、あっけなくつぶされて捨てられるだろう。見なければこんなことを考えなくても済むのに、一度見てしまうと、その場から離れられなくなる。
 どうしよう。思わず、杏仁豆腐のなかへ指をつっこみそうになった。だめだ。そんな姿、傍から見たらただの不審な客だし、第一、不衛生だ。そうだ、紙ナプキン、と思ったが、近くには見あたらない。席まで取りに行ったらその間にほかの客がやって来るだろう。仕方なく、脇に積みあげられている小さなお椀をもう一つとり、普通にお玉で汁ごと掬って自分のテーブルへ持ってきた。
 虫が苦手なのに、料理の横に、虫入りのお椀を自分で持ってきてしまった。人に気づかれないように、紙ナプキンの角を救命ボートのように差し出してみると、もう半ば死に掛けてぐったりしていたが、なんとか小さな前脚をかけてその上に乗った。もう一枚、紙ナプキンを取り出して、羽のあたりにつけて水分を吸うと、急に動きが軽くなったので、復活した、というのが、こちらに伝わってきた。そして、ナプキンの上を大きくはっきりと三周して、目の前から消えた。
 いまの三周、見た?
 誰かと一緒にいれば、そう言っていたが、その日はひとりだったので、言葉にはならなかった。でも、あの三周は、どう見ても普通のテンションではなかった。踊っているというか、はしゃいでいるというか。笑われるかもしれないが、私はほんとうにあんな虫の動きを見たのは初めてだった。優勝決定の直後にグラウンドを走りまわり、オーディエンスによろこびを伝える野球選手のようであった。店内のざわめきがすっと遠くなり、しばし呆然として、虫が飛び去ったあとの、誰もいないグラウンドみたいな紙ナプキンを見つめていた。








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