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評者◆杉本真維子
針の灯火
No.2931 ・ 2009年08月29日




 目黒の東京都庭園美術館で「ステッチ・バイ・ステッチ 針と糸で描くわたし」という展覧会が開催されている。筆ではなく、糸で描く、ということだけでなく、そのインスタレーションを体験して、こういう刺繍アートの世界があるのか、とちょっと驚いた。
 たとえば、壊れたスプーンを接着剤でとめ、針金のようなもので繋ぎあわせて、その痛々しい姿をオーガンジーでそっと包んだ作品。これは、竹村京「修正シリーズ」のうちの一つで、修正することで、壊れてしまった、ということを受け入れて肯定する。認めることの厳しさが、作品の存在を底のほうから支えていて、喪失感や涙というキリキリした痛みが繊細なやさしさに覆われている、それが「見える」というところに心を打たれた。あと、作品名はうろ覚えだから違うかもしれないが、かつてここに水道があった、というようなタイトルの作品では、バスルームのシャワーのヘッドからホースのあたりに、オーガンジー(特殊糊でコーティングされた、薄手で半透明の綿織物)が包帯のように巻いてある。もう水が出ないシャワー。バスにも一滴の水の気配はないが、かつてあった、という事実と思い出が、作品に大切に仕舞われていた。
 それから、奥村綱雄の「夜警の刺繍」もよかった。作家自身が、警備員としての勤務時間中に作り上げた作品で、何かを描くのではなく、白い布に糸を点状にひたすら刺繍して埋め尽くしていったもの。言われなければ刺繍だとわからないかもしれない。私は砂に見えた。布に隙間なく接着された砂が、渦まいているのかと。
 長期間制作していたことで手の脂が染み込んで茶色くなっている、ということなので、渦に見えるものは彼の手が動いた跡でもある。一方で、製作中のすでに過ぎ去った時間、もう動かない時間の視覚化でもあると思えた。糸はきつく固まり、もし表面に爪を立てたとしても、そうそうは動かないだろう。彼はある場所で、ひたすら刺繍をしていた、その事実が、たたんで置いてあるガードマンの制服、作業時間を記録したカウンターなど、状況を伝える展示物によっていっそう揺るぎなく、リアルに、せまる。
 それにしても、制作風景の一枚のドキュメンタリー写真は、見ているだけでどきどきしてしまう。どこかの駐車場のガードマンが、白い布に顔を近づけて刺繍をしている光景だ(もちろん、立った姿勢で)。
 勤務時間中に隠れて制作する、ということは、いわば労働に対する報酬という約束を放棄し、時間を盗むことでもあるが、その危うさや悪は、たぶんあらゆる芸術に不可欠なものだ。だから、その直接性によってもこの作品は際立って人を惹きつける。ちらちらと心をよぎった、罪悪感のようなものは、純度の高い汗となって、ひたいを滑り落ちていたかもしれない。そんな、様々なざわめきをはらいのけて、無心に刺されていく一本の針。その輝きが、小さな灯火となって、彼の「夜」を突き抜けている。そのことが全然他人事に思えないのだ。







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