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評者◆杉本真維子
「ふと」の彼方へ  
No.2934 ・ 2009年09月19日




 「ふと」という副詞がある。辞書を引いてみると、「はっきりした理由や意識もないままに事が起こるさま。思いがけず。不意に。」とある。
 今まで、私は、この言葉について、内発的に湧き起こったこと、という前提で捉え、決めつけていた気がする。誰かのことをふと思い出した、など、「ふと」という言葉でしか表現しようのないものは日常に多い。でも、そもそも、どこからやってきたのかわからないのだ。自分のなかから湧いたのではなく、誰かの、何かからの発信が、ようやく届いた、と考えてもいいのではないか。
 遠くから投げられた矢のように、それはどこからかやってきて、私へとささる。十年前の矢かもしれないし、現在のものかもしれない。タイムラグはあるとしても、誰かが、どこかの時間から私を呼んでいた、それが届いたから突然思い出した、というふうに。
 たとえば、言葉にもならず、声にもならない、行動という選択肢も封じられ、完全に身体性を持たない、いびつで荒々しい「思い」――そういうものが、どこへ行くのか、私は気になる。消滅なんてありえないだろう。それを抱える人は、なんとかしてそれを、標的へと飛ばしたいと願うのだ。身体が果たせないことを「思い」に託すのであれば、残された道は、それができるという心の力を信じること、それだけである。
 それは、まだ、祈りほどにはふちが整っていないし、乾いてもいないものだ。叶う、ということは、届いた後の未来に関わることなので私に何か言えるはずもないが、「思い」が届く、ということならば、それほど特別なことでも、非現実的なことでもない気がする。別の言い方をすれば、対象にはっきりとぶつかる、ということである。
 奇妙なことを言っているかもしれない。でも、これまでの数々の「ふと」、とりわけ、誰かを突然思い出したときの、誰かが、どこからやってきたかを辿っているうちに、そんなふうに思った。点ほどの小さな光にむかい、暗闇を進んで行くと、がたっと段差みたいなものから外れ、生々しく、他者にじかに出会った、という感触があった。
 これを記憶として括ってしまうこともできるけれど、「ふと」によって呼ばれた理由みたいなものが、忘れ去られた石ころのように、落ちていて、私はそれを、ある日、拾った。拾う所作に、なんともいえない罪深さが纏わりついて――それは、私が、じつは呼ばれた理由について何かを知っている、隠している、証拠であるような気がした。
 本当だろうか。書いていて、そう言いたくなってきたが、本当なのだから仕方がない。そして、この誰かからの石を、拾った、という感触をもった私自身が、「思い」が届く、ということへの、まぎれもない証人なのだと、信じられないことに、信じられるのだ。








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