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評者◆杉本真維子
どうってことない、という純粋
No.2936 ・ 2009年10月10日




 宇都宮駅からバスで10分くらいのところ、小さな路地を入ると、S店はあった。
 喫茶店で休みたい、と思って、うろうろしていたら、ちょうど目に飛び込んできたので、迷わず入った。ここ一軒くらいだろうか、ほかに休むところはなさそうだった。
 入り口付近のテーブルに座っていた老女が、いらっしゃい、と言った。右側にカウンターがあり、なかから店主とおぼしき男性が、遅れて、いらっしゃい、と微笑んだ。
 メニューは壁のボードに書いてあった。とりあえず、コーヒーを注文する。昼食もとろうと思って、フードの欄を見ると、焼きそばしかない。
 イカ入り+100円、肉入り+150円と、焼きそばのトッピングが豊富にある。ここは、何屋なのだろうか。ちょっと戸惑ったように、店主のほうを見ると、照れたように、焼きそばしかないんです、と言った。
 麺が太くて、東京ではあまりないような食感。おいしい。これはプロの味だ、と焼きそばに詳しくない私でもわかった。青海苔も鮮やかな緑で、食欲をそそる。 
 あっという間に食べてしまい、コーヒーを啜っていると、さっきの老女が、ここにお金置いとくよ、と、とくに愛想なく言って、店から出ていった。
 なんだ、店の人じゃないのか。
 入ったとき、奥が空いてるよ、と案内してくれたのに、あれはなんだったのだろうと思う。まあ、いいか。そういうこともあるだろう。気にせず、コーヒーに口をつけると、こんどは店主が、出て行ってしまった。
 たったひとりだ。がらんとした店内を見渡すと、隣には懐かしいインベーダーゲームのテーブルがあった。大きな白い扇風機が客席のテーブルにどんと置いてあったりして、ちょっと見方を変えると、ここはどこかの家庭のようでもある。
 まもなくして店主は帰ってきた。別にどうってことない様子だ。どうってことない、という空気は心地よい。もう少し居たかったが、時間が迫っていたので勘定を済ませ、帰り際に、おいしかったです、と伝えた。店主は照れながら、また来てください、と言った。
 店を出るとき、壁際の小さな張り紙が目に入った。
「喫茶店みたいですが、本当は焼きそば屋なんです」
 その文字も、「本当は」という言い方も、どこか照れている。そんなに照れなくてもいいのに……。レトロなのに、なんだかすべてが初々しい。
 歩きながら、自分のなかに、うれしいような気持ちが留まっていると気づいた。でも、どうってことない、とちょっとむりに思い直し、次の用事へと向かった。
 すると、平静なこころの下からむくむくと、照れくさい気持ちが湧いてきた。そのとき、私はどんな顔をしていただろう。もしかしたら、この数年でもっとも、初々しい顔をしていたかもしれない。







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