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評者◆杉本真維子
笑う獣医
No.2945 ・ 2009年12月12日




 猫を飼っているので、ときどき動物病院へ行く。最近、ペット用のバギーを購入したので、それを押して40分の距離を歩く。近所にもいくつか病院はあるが、その獣医さんでなければだめ、という理由があるので、カラガラ押して、遠くまで歩いていく。ちなみに、ペット用バギーはまだ世間的に認知度が低いので、ベビーカーに赤ん坊を乗せていると思ってのぞきこんだ人が、猫だと気付いた瞬間の顔はすごい。小さな絶句と同時に、見なかったことにする、という脳の装置が働くようで、複雑かつ高速に表情が変化する。
 その獣医さんは、注射器をもって「痛いよ。ちくっとするよ。」と猫に話しかける。そのとき、きまって、ニヤっと笑い、ちょっとうれしそうな顔をする。診察台の猫が、てのひらに汗をかいていたときも「汗かいちゃってる」と言って、ニヤっと笑った。あ、と私はいつもその瞬間を見逃さないが、言葉にはならない。でもこの笑いのなかにこそ、私がはるばるバギーを押し、その獣医さんに看てもらいたいと思う理由がある。
 ニヤッとするからといって、何かを企んでいるわけではない。痛いよ、と言いつつ、その注射が動物にとって深刻なものではない、とわかっている。まずそういう「余裕」があることが前提である。そして、深刻なものではないというのに、猫は緊張して掌に汗をかいている。その姿にぎゅっと心がしぼられるように、可愛い、という気持ちが湧いてくるので、顔がゆるんでニヤッと笑ってしまう――以上、すべては私の推測だが(それになぜその姿を可愛いと思うのか、可愛いと思うとなぜ笑うのか、というところまでは複雑すぎてここでは触れられないが)、とにかく私には、獣医さんがニヤッと笑う意味がよくわかるのである。
 そして、この「なぜかわかると言えるのかはわからないが、笑う意味がわかる」というところで、私の獣医さんへの信頼はつながっている。このひとはほんとうに、動物が好きなのだな、とつくづく思う。素人の私にも、動物の医学書を出して、内臓などの機能についてわかるまで丁寧に説明してくれる。そんな獣医さんはなかなかいない、ということは、これまでの経験で知っている。説明してくれる、ということは、相手の不安な気持ちがわかるからで、それがわからない人は、たいてい事務的な説明しかしてくれないのだ。
 でもこの笑いの意味は、ちょっとマニアックすぎて、誰にでも通じるものではないように思う。動物に興味がない人にとっては、悪意の笑いにしか映らない可能性だってある。もしそうだとすれば、そこでは意味がまったく逆になる、ということに怖さを感じる。笑いは、言葉ではないのに多義性を持っているから難しい。どんな種類の笑いなのか、その場では、瞬間的な感覚でとらえる以外に方法がないということも。
 笑いがもっとも難解で不気味なものであることは、今さらいうことでもないが、こんなふうに、誤解され、誤読されて生きる、ということは、私たちにとって極めて日常的なことであり、かつ宿命的なことなのかもしれない。だとしたら、その現実に抗うことは、強さなのだろうか、弱さなのだろうか。







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