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評者◆杉本真維子
コーラのなかの桜
No.2965 ・ 2010年05月08日




 戸山公園のなかの箱根山付近には、舗装されていない道がけっこう残っている。根元から二股に割れた大木のそばに、傾き始めた陽がうすく射している場所があったので、そこにシートを敷いて、座った。
 午後の二時間ほどの、小さな花見である。Sさんは、日本酒を飲み、私はコーラとコーヒーを飲んだ。ときどき冷たい風が吹いて、視界がしろく、まだらになった。あ、花吹雪、と言ったあとで、間違えた気がして、桜吹雪、と小声で言い直した。どっちでもいいことなのに、なぜか正確な言い方がしたい気持ちだった。
 コップのなかのコーラに、花びらが一枚、入った。こういうのも風流って感じでいいかなと満足していると、白い蛾に見えてきた。透明な醸造酒に浮かんでいれば美しいものも、黒いコーラの泡の上ではそうはいかないみたいだ。泡から逃げるように動いている、白くて、薄い、閉じた二枚のハネ…というものを想像したが、こういうことは言ってはいけないと思った。
 その場所は、小高い丘になっていて、見下ろした先には、開店準備中の三つの屋台があり、手前にはまだほとんど人が座っていないブルーシートが敷きつめられていた。遠くのほうで、シートの端を持って、国旗のようにバタバタと振っている年配の男性がいた。腕の振り方はしだいに荒く、音は激しくなって、花びらがなかなか払えないことに苛立っているのがわかった。その苛立ちは、視界の隅に入っていた、公衆トイレの存在を、急に、際立たせた気がした。
 あんなに払わなくてもいいのにね、と思ったが、言わなかった。すると、今度は、シートの上の花びらを、箒で掃いている男女の姿が目にとまった。大量の桜吹雪が舞うなかで、掃いても掃いても、きりがないのに、彼らはめげずに、ずっと掃き続けていた。さらに、掃除用具の黄色い「サッサ」を取り出して、床のように隅々まで、ワックスで磨いていた。
 あんなに掃かなくてもいいのにね。ついに口から言葉が出た。私たちは、桜吹雪のなかで花見をするのに、花びらを完璧に掃こうとする理由について推測し、ぼそぼそと話しあった。それは裏返せば、そんなに花びらがいやなら、室内で見ればいいのに、という、わるくちのようなものでもあった。
 けれども、私たちは小高い丘の上、にいたのだ。ここからだと、桜を掃いているようにしか見えないが、実際は、土ぼこりを掃いているのかもしれない。土ぼこりのなかに、きれいな桜が混じっているから、桜を掃いているように見えるんだ、きっと。
 そう思ったとき、遠近感が変わって、めまいのようなものが起こった。さらに二人を、会社の同僚と決めつけ、場所取りのために、朝の出勤前から敷いていたシートだからほこりだらけなのだと、彼らの生活みたいなところまで、勝手に想像をとどかせたとき、また美しい花びらが、私たちの髪のうえに、戻ってきた。視界のふちで、存在を主張していた公衆トイレも、かすんでいた。私は、コーラに浮いた白い花びらを、黙って、飲みこんだ。
(詩人)







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