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評者◆平井玄
高円寺と渋谷のサイケデリック地理学 (前‐2)――いずれ巨大な波濤が渋谷川を一気呵成に遡るだろう
No.3018 ・ 2011年06月18日




 (承前)そして「坂」が出てくる。東浅草の交差点から南千住の歩道橋が見通せる平らな山谷通りと違うのは、体に縄を巻いた男が立っているのが長い道玄坂を下り切った「坂下」だったことだ。急峻な山地を這う凄惨な戦いを描いた『レイテ戦記』はもちろん、『武蔵野夫人』や『事件』でも地勢をめぐる仔細な記述が小説の語りと濃密に絡み合う。そう考えると、晩年の作家がドゥルーズ/ガタリの著作に親しんでいた意外な事実に合点がいくはずである。
 さらに、小林秀雄と付き合いはじめた大岡少年と入れ替わるように「ハチ公」がこの街にやって来る。あのいじましい忠犬物語が流布されたのは、日本人が狂犬になっていく一九三〇年代である。ハチらしき犬がほんのワンシーンだけ出てくる吉川英治原作の『あるぷす大将』(山本嘉次郎監督、一九三四年)という映画が残されている。文部省推薦映画として夏休みの公園で小学生の頃見たそれには、いかにも月給取りたちの住む郊外らしくなった町の面影が記録されていたと思う。
 飼い主の東京帝国大学教授が住んでいた跡地は後に東急百貨店になった。懐が暖かくなった大岡少年の親が買った家もすぐ隣町だ。中学生の私が一九六四年に訪ねたブリヂストン経営者一族に連なる同級生が住む邸は宮益坂裏の一角にあったが、戦争を挟んでその頃まで町全体に静かな郊外の気配が漂っていたのは確かだ。
 地下鉄銀座線が高架になって三階に吸い込まれる渋谷駅ビルが完成する。矢作俊彦の『ららら科學の子』は、六〇年代初頭のそれをまるで「宇宙ステーション」のように描いた。その向かいには「東急プラネタリウム」の銀色に輝く屋上ドームができていた。そうやってこの町が「山の手」の中心街に躍り出た虹色の瞬間を、セピア色の「宇宙都市」として半世紀後に定着したのである。ハチ公が待つサラリーマンの町は、「ラララ科学~の子~」百万馬力の超小型原子炉を搭載した鉄腕アトムが飛ぶ「空中都市」になる。
 「空中」というのは、青山の台地や世田谷の高台との間には大きなすり鉢の底のような段差があるということだ。その谷底は渋谷川として麻布台の南側を迂回しながら竹芝桟橋から東京湾へと通じているのである。渋谷駅前の海抜は一八メートル、三月一一日に大船渡を襲った津波の高さは二三メートルであり、宮古のそれは三七メートルにもなった。いずれ巨大な波濤が渋谷川を一気呵成に遡るだろう。宇田川町は暗渠になったその上流である。
 だから十本もの坂道が集まるハチ公前のスクランブル交差点は、泥に塗れたブランド品が泡銭や遺骸と絡み合う湖底と化すに違いない。アルプス南麓に広がるルガノ湖のようにヒトデ形の湖沼になる。ファイアー通りの中腹に建つ「TEPCO電力館」も「渋谷湖」に浮かぶ群島の一つと化すことはどうやら避けられそうにないのである。その水底を一万五〇〇〇人を超える「ロックフェス・デモ」が踊りながら練り歩いていく。
 「人はこの火山に怒りを、破壊欲を、ものを感じとる力について既に頭の中にある不安を投射する。ナポリのヴェスヴィオの近くに五か月逗留したサドは、暴力に繋がるものが喚起する悪行の空想を持ち帰った。彼は何年も後に『ジュリエット』の中に火山の場面を描き、悪の権化のような女を登場させて頂きまで登らせ、二人の連れのうち退屈しごくの男をすぐさま燃える深淵に投じさせ、もう一方の好ましい男と噴火口の縁で交接させた」(スーザン・ソンタグ『火山に恋して』富山太佳夫訳より)
 ここでソンタグが描いたヴェスヴィオ火山はサドやゲーテを衝き動かした「戦争機械」なのである。地震や津波もそういえるだろう。古来、地震が「鯰絵」として象られたのは、その破壊と付き合わざるを得ない列島人たちが編み出したユーモアだったと思う。一方で原子力発電所は何ものも生み出さない「原国家」に似ている。「原発に恋して」いるのは日本経団連や裏社会の方々くらいだろうから。
 こうして「地勢」の力が迫り上がってくる。この力を捕まえようとして、例えば中沢新一の「アースダイバー」が記すのは縄文時代から一万数千年余りの霊的な地理学である。しかしそこで描かれているのは、むしろ「荒ぶる力」を鎮撫する「封印」の地形なのである。
 今必要なのは、殺到する戦争機械のエネルギーによって地質とない交ぜになったような「サイケデリック地理学」なのではないか。
(音楽批評)
――この項、後編に続く







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