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評者◆谷岡雅樹
これでいいのかしら。日本――森岡利行監督『女の子ものがたり』
No.2932 ・ 2009年09月05日




 谷岡の文章は文体が壊れているから暴走する内容のほうが面白いと言われる時がある。期待に応えるわけではないが今回は非常に極私的な妄想物語となることをお許し願いたい。そうなる理由も読んでいただくとわかる。俺が男であり、つまりは時代に拘るからだ。取り上げる映画は『女の子ものがたり』。書き尽くすに百枚は必要で、しかしまともに読まされては読者は堪ったものではなく、本連載枚数がちょうど良いかも知れぬ。いきなりの掟破りで申し訳ないがラストシーンの台詞から書く。「私はみさちゃんときいちゃんが好きだ。友達だ。もうこんな友達は一生できないと思う」。主人公のなっちゃんの独白だ。沁みるねえ。さて。だがこの映画は“友達っていいなあ”物語であろうか。違う。そんな生易しく甘い関係が描かれているわけではない。最後は決別と断念の冷酷な吐露なのだ。
 なっちゃんとみさ、きいは貧乏三人組だ。いつか幸せになりたいと願い「自分たちの居ても良い場所がきっとどこかにあるはずだ」とやけくそ交じりに信じつつ、しかし半ば将来の幸せについて懐疑し、可能性を捨ててもいる。これはいったいいつの時代の話であろうか。高度経済成長を達成した日本は誰もが中流感覚を持ち豊かになった。一九五〇~六〇年代は全世界に共産主義旋風が吹き荒れ、反共産のアメリカでも公民権運動が盛んで、その影響下の日本でも安保闘争はじめ運動があった。運動そのものの敗北感とは別に、その遺産として(映画や音楽も含めて)異文化交流によって差別意識が後の世代に消えていったことが挙げられる。だが果たして差別は豊かさによって克服されたわけではなかった。そのことに拘りたい。女(貧乏)が一歩下がって、合法売春(結婚)の売り値を吊り上げる側(男芸者も同じである)と買い叩く側だった時代。三種の神器と言われた家電のあるなしで差がついた時代。電話だって設置している家と無い家とがあった。ピアノ、自家用車、エトセトラ。「どこかにあたしのこと、全部好きな子がきっといますように」と、小学生の女の子が海に向かって放つ絶叫は強烈だ。冒頭描かれる現在の主人公菜都美(なっちゃん)もそれを演じる深津絵里も共に三六歳である。現在とは二〇〇九年であり、子供時代の設定はおそらく小学高学年で、四半世紀前、多分二十五年前。つまりは一九八四年前後だ。「貧乏」というキーワードがぎりぎり通用する年代であろうか。しかし映画自体は、こういう推察や無駄に裏目読みされることを避けて、敢えて有耶無耶に描いている。女性というものが時代とは関係しない。或いは時代に翻弄されたり時代を必要以上に重視することなく生きているということを、さらりと主張してもいる。にも拘らず俺はその「時代」という奴が気にかかる。それは監督にとって本意(気持ちのいいもの)ではないことのはずだ。が俺は時代に絡む。妄想であり暴走とはすなわちこのことである。俺はどうしても拘るのだ。豊かさと友達の偽りの関係に。ぶつかり合う前の段階の友達もどきに。
 先日、NHKのETV特集で、毒ガス障害患者を四十六年間診療し続けた医師のドキュメントが放送されていた。広島県の大久野島で医師がたった一人医療活動をしてきた。途中、派遣先の大学に応援を要請したら、ちょうど大学紛争中で島に人を寄越すことなど無理だった、と。時代のせいにする。国家とは男なのだ。戦時中に(第一次大戦後のジュネーブ協定で)禁止されていた毒ガス兵器の工場が大久野島に作られる。戦後、明るみに出ることを恐れた軍は施設や資料を焼却処分した。今公開中の手塚治虫原作の『MW』は、この事実をヒントに作られているはずだ。がさっぱりヒットしていない。主人公は、島に隠し残されたこの最終兵器ともいえるMWを使ってMWを生み出した元(根源悪)に向かって文字通り悪としか言えない破壊行為に手を染める。まるで女性のような美形の玉木宏が演じている。これを阻止する側は正義ではあるだろう。無骨な風貌とごつい図体の石橋凌が刑事だ。しかし善なのか。生み出した元(国家)の手先ではないのか。つまり善と悪との対決ではなく、さらに大きな悪をくじく小悪の主人公。数々の残虐行為を平気でやってのける悪魔にも拘らず、執拗に追う刑事(国家)から逃げてくれと願ってスクリーンを見つめている俺がいる。すなわち、斗争の季節の後の豊かさを四半世紀の一渉り味わってしまうと、飽き飽きして、決して克服してはいない、いやむしろ別の柔らかいグローバルなやり口で浸透してきた差別や貧困や格差の問題を扱うテーマに、この二〇〇九年から戻っていくのではないか。そんな映画が文化的危機の照明器具としていくつも現れている。

こ数年、日本で映画はスクリーン数も史上最高に増え、にも拘らずコヤ(劇場)にかかるために待機している映画がさらにあって、公開本数も破壊的で、例えばVシネマと呼ばれる任侠系映画などはその割を食って単館公開すらママならず、アクション系の傑作『太陽が弾ける日』などは公開されたもののレイトショーのみで完全に無視される格好となった。しかしそれもどうやら今年、終わりを告げてきたようだ。数が増えたのは、ビデオカメラの進歩とそれに伴うドキュメント作品も含めた個人的な映画の手軽な制作が可能になったことが挙げられる。映画もまた、大掛かりなバンドでなくとも、作曲家付きでなくとも、生ギター一本で世界を変えることができるというわけだ。紙を使って本を出版しなくとも、ブログで読んでもらえる。音も映像もユーチューブで配信できる。だが果たしてそれは骨のある表現といえるものか。アマチュアばかりが闊歩して、薄っぺらい焼き加減の料理を食わされてはいまいか。飽き飽きした結果、東京では本物志向による名画座回帰現象も起きている。またしても、前回前々回に書いた鉄鍋の話(絶対に磨いても落ちない錆付いた汚れの鉄鍋を磨けと命じられる見習い職人の意味についての話)に戻るが、技術とは、まず身に付いてしまえば、表現などできるのだ。『怒る西行――これでいーのかしら』という映画を沖島勲が撮った。たったの五時間をかけて、家の近所を語って歩くだけの二時間のドキュメントだ。これはお手軽に出来るこの時代の映画に対する皮肉であり問いかけであり警鐘でもある。何が描かれているかといえば、日頃沖島勲が考えているこの世のよしなし事であり、東京のビル群(文明社会)は沖島から見ると冗談に見える。これでいいのかしら? ということである。それは平安時代に西行が見た京の都の光景でさえもなんら変わらない感慨を抱いていたのではないか。所詮人間は愚行を突き進む、というような諦念だ。この(さして緻密な枠も決めずに撮り始め完成させるという)軽やかさは、自らの(考え方の)稚拙も含めて恥ずかしげもなくさらけ出すありのまま感覚であり、ある意味沖島の自爆テロである。まさにこれでいーのかしら。ただ沖島は言葉と裏腹に自信満々である。手に職を持つ時代の活動屋が今なお地に足が着いているという奇跡。一方で現代の作家が自信がもてず不安でいる。西行の時代の人間にテレビを見せたら驚くだろう。何をどうしていいのかわからない。では現代人はどうか。スイッチを押すことは知っている。しかし実際に中身を作り上げることは技術者しかできない。昔の人間よりも賢いわけではない。要領よくスイッチを押すことを覚えているだけだ。誰もがテレビを作れない。手作業が賢さと自信の元だったとするなら、誰もがエリート階級並みにスイッチしか押せなくなった豊かさ実現以降の時代に、いったい何が必要なのか。
 一九八四年の経済白書の副題は「新たな国際化に対応する日本経済」。前年に東京ディズニーランドが誕生し、そこに落とされるべく新しく一万、五千、千円札が発行された。俺はこの年、二十年ちょっと生まれ育った北海道を去り大阪で暮らし始めたが、グリコ・森永事件に山一戦争と翌年まで続くPL学園の桑田清原フィーバー及び阪神優勝で、この国の激動をよその土地も相俟って劇的に感じた。果たして八三年と八四年とを分かつものは何だったろう。八三年PLの出現とはすなわち鉄鍋の池田高校が敗れたということだ。中曽根首相は八四年、長谷川一夫、植村直巳、山下泰裕と国民栄誉賞を乱発するのだが、その前年の八三年に盗塁世界記録を樹立したプロ野球選手の福本豊に国民栄誉賞を打診するも断られている。この差は何なのか。固辞する清貧が生きていた。八四年からトルコ風呂という言い方がソープランドに変わり、新風営法によりノーパン喫茶が消えた。前年の八三年に八神康子という初のAVアイドルを生んだアダルトビデオの世界は八四年に大爆発を起こす。この年逮捕された愛人バンク「夕暮れ族」の女社長は、短大卒と嘘をつき、テレビドラマ「ふぞろいの林檎たち」では学歴を隠す看護学生がいた。その感覚。まるで今年の押尾学逮捕で浮上した下着メーカーの女社長がインディーズAVメーカーの男と夫婦だった履歴を隠しているのに似ている。四半世紀忘れていた「ゼロの焦点」の過去の闇を消す作業。つまり酒井法子事件はもはや八四年の三浦和義事件のような受け入れられ方はしない。もう浮かれない。豊かさを謳歌しつくした四半世紀は終わった。八四年、プロレスでは闘魂三銃士と呼ばれた武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也が同期入社した年である。口も達者でパフォーマンスで押す彼らはしかし、UWFインター、K‐1、パンクラス、プライドといったセメントな流れに翻弄される形で、色あせゆく虚飾の大木であり、むしろ王道プロレスと呼ばれた三沢光晴こそが四天王として牙城を守り清貧の鈍い光を放っていた。しかしあくまで鈍かった。そのデビューはもちろん八三年以前であり、希望を失ったように彼がバックドロップで亡くなったのが今年二〇〇九年だった。今年から始まったかも知れぬのに。
 自覚とは何か。責任感である。たとえば才能のあるものは、或いは上級学校に行かせてもらったエリートは本来、優秀さとともに、特権を利用できるゆえの責任も持っていた。鉄鍋の過程をはしょって型に乗っかるだけのスイッチ人間は軽蔑の対象でしかない。友達関係における手作業とは何か。その場限りだけでも取り決めを作りあげることだ。血を流しても喧嘩をすることだ。「この町を出て行け」。きいちゃんはなっちゃんにびんたを食らわす。それは決して「なっちゃんはこんな田舎でくすぶっているような玉じゃない。あたしたち凡人と付き合うな。才能ある人間なんだから花を開かせろ」と、心を鬼にして言っている……わけではない。だから菜都美も和解などする気持ちはない。本気で決定的な截断を引き受けている。それが証拠にきいちゃんの死後すぐには焼香せず、みさちゃんとは会わない。締め切りなど理由ではない。この関係に貧困の持つ豊かさを久々に見た。菜都美は観覧車に乗って「ここからだと何も見えないなあ」とつぶやく。「この窓からじゃあ何も見えない」と語った『竜二』の公開されたのは八三年であった。貧困の耐えがたき重さの復活にわくわくする。豊かになるとすぐに金に回収されてしまう映画が批判勢力となりうるのはゲリラ戦だけである。
(Vシネ批評)







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