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評者◆杉本真維子
立入り禁止
No.3097 ・ 2013年02月09日




 立入り禁止のロープをくぐった。長く放置された巨大な青果市場に忍び込み、何かをざりざりと踏みながら、汚れたビニールカーテンを捲って、奥へ、奥へ、進んでいく。薄明のなかで、ステンレス製の流し台、片方だけの手袋、紺色のジャンパー、ダンボールの散乱が見える。もう少し行こう。なぜ私たちは屋上を目指すのか、わからないまま、光など期待していないのに、最後の一枚のドアを力任せに押すと、何も見えなくなるほど白い、光へと出た。
 屋上は、生き物のように、全力で光を搾り出して、人間の目を攻撃し、拒絶するようだった。あるいは、待っていたのだろうか。私たちは構わず、わあ、と歓声を上げた。一方的に見られるものの無防備さは痛々しく、若い肌にはよく馴染んだ。弁当、水筒、少しのお菓子。鞄から取りだし、ゴミだらけの屋上の、崩れた石柱のかけらに腰をかけ、昼食をとった。今日は麦茶に砂糖を入れても咎められない。学校では禁止されていた「砂糖入り」の水筒を、持参した友達を見ても、どきどきしなかった。それ以上に禁止された場所へ、私たちはもう来ていたから。
 「このピアス入れ、あげる。夢が叶うよ」。一つ年上の男友達が、大事そうに背をかがめ、銅製の小箱の蓋を、そっと開けて、私に見せた。白地に深紅の美しい装飾が、蓋に施してある。ピアス入れと、夢が叶う、の意味が繋がらないまま、掌に載せてもらったそれを、黙って見ていた。
 卒業を控え、春になったら遠くへ行ってしまうひとだった。夢が叶う。それなら、私よりも先輩のほうが必要だったはずだ。なぜ? と問う間もなく、屋上に満ちた光がぜんぶ、すうっと箱に仕舞われていった。
 がしゃんと、ここで鍵が掛かる。思い出を思い出のまま生きさせるための、重たい鍵が。私は受けとったそれを、いったん闇へと投擲した。ざんこくな本能は、その後、二度と会うことはなかったひとの、影だけをはっきりと記憶に残した。影なんて見た憶えもないのに。
 数年後、私は鏡面に向かい、ピアスの穴を開けた。ある映画で、さえない女が一瞬の痛みに肩を竦めたあとで、これが自分かと、見とれるように鏡面に顔を寄せるシーンが、なぜか繰り返し脳裏をよぎった。ピアスくらいで生まれ変われるなんて、その女も、私も、思ってなどいなかった。ただ、無性に痛みを欲した。じんじんと火照る耳朶に求めた、古くさい自己確認も、その恥ずかしさも、ピアスという装飾品は、都合よく隠してくれた。
 その穴も、塞がって、もうない。微かな違和感だけを残す耳朶をひっぱることは、跡形もなく消えたあの「市場」へと私をいざなう、合図となった。使い途のなくなったピアス入れが、引き出しのなかで目を覚ます。本来の目的を失ったモノが、夢が叶うよ、の言葉そのものとなって、ここに在る。生まれ変わったのは、モノのほうであって、私ではないことを、しずかなよろこびとともに、抱きとった。小さな、点のような感情であった。
 それを膨らませずに、点のままで、いくつも集めておこう。想像力は、ときとして、わがままな罪でもあった。げんきでいますか、と遠く話しかければ、とたんに頽れるなつかしい生があることを私は知っている。だから、胸中に立入り禁止の札を立て、孤独に指差す一点、一点に、かがやいているものを渾身で認めたい。その行為のなかに、幸福は揺ぎなくある。と、ピアス入れは、気泡のような声で、最近、喋りはじめた。
(詩人)







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