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評者◆杉本真維子
『龜裂』への旅
No.3161 ・ 2014年06月07日




■母語への愛惜にふかく身を沈めることで、みずからの命の芯に触れる。そのよろこびの飛沫が、うつくしい日本語と溶け合って、夜空になまなましい閃光をはしらせる。近代詩の抒情をいっしんに受け継ぐ詩人・寺岡良信の『龜裂』において、この至福の時間は、同時に、死と直面する「いのちの限りを託した」時間である。
 「一輌また一輌/連結器を苛立たせ/潮騒の沖に立ち去る客車/放埓のまま/懶惰のまま/虚しく日を弄んできたわたしに/星座は檻の形をして/納棺を待つてゐる」(「客車」)
 いまの私にはわからない、けれどいつか必ず私にもわかることが書かれている。そのたしかな予感に慄いていると、詩集の彼方に、微かに、夜の海に漂泊する光の客船が見えた。なぜかはわからない。ただ、闇と光の龜裂において苛烈にたたかっている客船に目を凝らし、見たものを零さぬように、目を閉じる――。
 東京湾。ナトリウム灯がコンテナ船から溢れ、夜の水面へ流れだしている。滲んだ橙のなかに鮮やかな青が点在し、印象派の絵を見るような荒々しい光の動線に、陶然となる。人の目を意識して、装飾した灯りではないのに、なぜあんなにも美しいのだろう。……そう書きつけて、引き返す。人の目を意識していないからこそ、美しいのだと。
 コンテナターミナルでは、ぶ厚い手のひらの、まなざしのきれいな男たちが、ひたいに汗を滲ませ、クレーンのハンドルを握っている。その景色が連れている無表情の倉庫。暗がりで並んでいるリフトが、恐竜のような後ろ首を見せる。二本足で立ち、牙をむいて、静止している。その二度と動かないかのような気配が、死のように私を威嚇する。
 進みつづける客船の冷たさに、学ぶものもあるだろうか。船はいつでも容赦なく、目の前の景色との別れを急かす。乗り込んでしまえば、私の目は海路のうちにあり、新たに見えてくる別の景色にまなざしを向ける。それでよい、と船がいう。ふと夜空を見上げると「牡牛は牡牛座となつて/蒼く凍つた」という詩行がよぎる。その残酷な美しさと、痛みだけが、自由だと思える。
 橋の下をくぐり抜ける手前で、水夫が、帆をおろす準備を始める。油で汚れた作業着からのぞく、日焼けした腕が、空へとのびる。そのいっぽんの腕は、トップデッキでワインやカクテルをテーブルに置いて、談笑する客たちと交じり合うことはない。そのことの尊さを、減速した船の静けさがだんだんと際立たせる。交差しないまま、関係しないまま、それでも乗船者たちはみな、同じ場所へ等しく運ばれるだけだ。
 螺旋階段の脇には、ピアノと小さなバーがある。髪を七三分けに整えた、若く、折り目正しいバーテンダーが、銀色のシェイカーにやわらかな光を反射させて、激しくからだを動かしている。酒の種類は豊富だが、みな同じものを飲むのだ、という命令のような声が、船内に響く。
 バーカウンターへ向かう人々。あの小さな行列は、本当に酒だけを待っているのだろうか。夜の海に漂泊する船の孤独は、どんなきらびやかなシャンデリアの光でも慰められない。何かを期待するように私も並んだ。列の先頭と最後尾がふいに逆転し、最初のグラスに口をつけたところで、爆音がした。
 「霧はけふもまぶたの裏を流れて海へ出た/曉を過ぎるために/客車はわたしの眠りを載せて/湾に沿ふ」(「客車」)
 目をひらき、夜の椅子に腰掛けて、『龜裂』の頁を開く。牡牛が牡牛座となるように、詩集のなかで、光の客船とそのなかを巡った私までも、星座となって蒼く凍っていたことを、どのように説明すればいいのだろう。それは調和であり、永遠であり、言葉へ命を注ぎいれることを意味した。







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