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評者◆杉本真維子
びばうし!
No.3189 ・ 2015年01月10日




■旭川駅から富良野線で、富良野駅へ行く途中に、美馬牛という駅がある。びばうし、びばうし。私は知ったことがうれしくて何度も口にだす子どもになった。口唇で弾ける迷いのない発音。びばうし、びばうし、と言うほどに、透明な風船が口から飛びだしていく。
 よそ者の気楽さでひとり盛り上がり、帰京してからも、その駅名を言い続けていた。でも馴染むどころか、言葉は私を離れ、その見事な字づらも音も、輪郭ばかりを濃くしていく。その土地の者ではない私と、美馬牛。決して身体化されない言葉は、喋れば喋るほど、外国語のように私を相対化していく。ちなみに、語源はアイヌ語のピパウシ(カラス貝の多くいるところ)である。
 上京したころ、東京の男の人が、きみ、という二人称代名詞を喋るのを聴いて、驚いたことがある。きみなんて言葉は、詩や小説のなかだけであり、私の日常になかったので、キザな科白のように聴こえた。しかも、話者がたまたま、山手線内に住んでいることだけを自慢しているような遊び人風の大学生だったので、十代の私のこころには、きみを使う人=浅薄というひどい偏見が刻みつけられた。
 しかし、社会に出てみると、きみは、当たり前に流通していた。尊敬する人も使っていた。そうやって私の偏見は正されていくのだが、それでもまだ馴染まない。でも今はその違和感を、わざわざ口にするほどではないので黙っている。このとき、私のなかで、もぞもぞとくすぐったさに耐えている柔らかい部分に、母語、つまり故郷が、埋まっているのだと思う。
 私の故郷である長野では、きみに代わる言葉も存在しなかったように思う。年寄りは、ときどき、おめさん、を使ったが、これは、おまえ、に当たるものだから違う。
 こういうことを考えていると、「誰」という否定語を思い出す。なんとこれが「いいえ」を意味する返事だった(目上には使わない)。だーれーと伸ばして発音し、語尾は大げさなくらい上げる。別に喧嘩を売っているわけではなく、「誰がそんなことを言うの? 誰も言わないでしょ。」という反語が縮まって、誰だけが残った。この語源を知ったとき、理屈っぽいといわれる信州人の秘密はここにあったか、と膝を打ったものである。
 きみ、という二人称は存在しないのに、誰、は通常の意味でも使うので汎用性が高い。老若男女があちこちで使い、不特定の人称代名詞に覆われていくイメージの故郷はちょっと不気味だが、そこを離れ、帰る家のない今となっては、妙にしっくりとくる。ポエジーのようなものさえ感じるので、長野で何か話す機会があると、ここぞとばかりに語源のことを言ってみる。でも、彼らにとっては理屈を越えた日常語なので、気持ちのよいくらいぽっかーんと無反応である。
 当然、彼らが故郷のひとである限り、なるほど、と興味を示すことはないのだ。それを見て、ああよかった、まだあった、とひそかにほっとする。何があったか、うまく言えない代わりに、地元で暮らすもうひとりの私が、同じ反応で口を開けている。
 その口に、びばうし、という言葉を突っ込んでみたい、という衝動に駆られる。消化不良で腹痛を起こすかもしれない。なんといっても、上京するまで電車の切符も買ったことのないふにゃふにゃの軟弱者であった。上京してからも新聞の勧誘を断れず三紙も取っていたびくびくの小心者であった。もっといろんな言葉を食べろ、鍛えろ。私はいじめっこのように、自分に、びばうし! と言っている。







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