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評者◆杉本真維子
枠になりたい
No.3253 ・ 2016年04月30日




■寝床の夢が、真昼の生活を食っている。先日は、銃のようなものを突きつけられ、至近距離からひたいを狙われ、目を閉じた瞬間、やっぱやめた、と敵は去っていった。恐怖のなかで、視界が真っ白な四角形になった。あの形はなんだろう、と、一日中、頭のなかで、四角形がかたかたと揺れる。
 夢によい影響を与えられるよう、日中はできるだけ心静かに過ごせばいいのだろうが、ここのところ、私の関心は、死刑囚の言葉に向かっていた。図書館でさまざまな資料をめくり、日本の事件史について調べていた。「ふらっと買い物に行くように、ふらっと人を殺しに行ったのです」
 たとえばこれは、二〇〇五年の大阪姉妹殺害事件の被告人の供述だ。ふらっと、何の動機もなく、襲いかかる他者がいる。その恐怖はもちろんのこと、自分のなかの、未知の感情を確かめないわけにはいかない。この確認作業こそが、長い時間をかけて、私たちを怯えさせるものだろう。
 被告人は中学卒業後、新聞配達で家計を支えていた。母親の借金に悩み、先の事件の五年前に、あるきっかけから母親と口論となって、衝動的にバットで殺害している(山口母親殺害事件)。当時は十六歳。ほとんど教育を受けられなかった彼の家庭環境は、裁判で情状酌量の余地があるとされた。しかし、その先の展開の急速なねじれが、途切れた文脈のようになまなましい。「母親を殺したときの感覚が忘れられず、人の血を見たくなった」。
 その欲求を抑えきれず、少年院を出所後、何の面識もない姉妹を殺害し、放火した。そして、この欲求は生涯変えられない、また同じことを繰り返す、自分は生まれてくるべきではなかった、として早期死刑を望み、二十五歳で刑死した。
 これは「目覚め」なのだろうか。一度目と二度目の犯人像に大きな乖離を感じるのだが、わからない。わからないからこそ、この事件は心に留まっている。
 ここまで書いたところで、ニュース情報番組などでテレビ画面の端に映る「枠」のことを思いだす。あの枠のなかで、コメンテーターたちは誰もが眉を顰め、加害者の気持ちは理解できません、という一律の表情をしている。その過度な演技を今さら批判したいのではなく、むしろ、あれでよいのだ、と近頃思う。諦念でもなく、同意でもない。零れ落ちるものが多すぎるくらいの、浅い皿のような心を見せつけられて、なるほど、と感心する。ああでもしないと制御できないくらいの、人間のやわらかすぎる感受性や、共感性について思うのだ。
 茨木のり子の詩に「自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ」という有名なフレーズがある。感受性は無防備ではなく、守れるものなのだ、と知ったときのよろこびは大きく、心強かった。しかし、年々、わからなくなってきた。この詩によって感受性は初めて論理的に守られたわけだが、身体的にはむきだしのままなのかもしれない。
 たとえば、相手の心を想像しようと努めれば、知らぬ間に、自分の心のひだが感応し、じりじりと熱を帯びる。その部分が、ほんの少し相手に似てくるような気がする。たとえ、嫌悪するような感情であったとしても。そのことを人は本能的に知っているから、身体をこわばらせて拒絶する。痛々しいほどに。
 「共感」にあまり優れていない者の目にはそう見える。たぶん私は、人間ではなく、枠に共感している。画面のなかや、夢で見た四角い形のほうに。
 信じられないことだが、枠ばかりみているからこそ、多くの人が、くだらない、と一蹴するテレビの人間の表情が、いまだに新鮮なのだ。悪夢を見るほど圧倒されるのだ。あ、いま心が動いた、いま演技してる、と、その心の動きにおののきながら、本当は彼らを納めた動かない「枠」を注視している(定型詩みたいに思っている?)。ひょっとしたら、人間よりも、枠になりたい。その欲求もまた、途切れた文脈のように、あまり人に理解されない。







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