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評者◆稲賀繁美
「意志的主体による責任」という〈虚構の必要悪〉――「中動態」から社会正義の根幹を問い直す(下)
No.3309 ・ 2017年07月01日




■「責任」とは自らが自らに「課し」自らが「負う」限りで、自己言及であり再帰的である。國分功一郎の新著『中動態の世界』(*)は、所謂印欧語族において、受動か能動かの区別が成立する以前に、そのどちらともつかず、現在では「中動態」と称するほかない底流が機能しており、現在の文法体系に残存する不規則は、そうした古代の残滓ではないかと主張する。どうしてこの古風な「態」はギリシア・ローマの歴史のなかで抑圧され埋没していったのか。「意志と責任の考古学」は、その起源までも「憶測」する。「意志」とは個人に責任を負わせるために社会がある段階で発明し捏造した虚構ではなかったのか。そして古代の文法書を解読する学者たちも、(それ自体「中動態」の変性に由来する)後世の範疇概念から遡及して「中動態」を理解しようとしたために、循環論法の誤謬を犯し続けたのではないか。そもそもアリストテレスには「自由」も「自由意志」も存在しない――。
 無理強いされた行為について人は責任を取りうるのか。恐喝された上の犯罪行為でも共謀責任は問われうるのか。ここには権力論のアポリアが顏を覗かせる。ハンナ・アレントは、犯罪に「仕方なく同意する」態度を、強要された暴力への屈服ではなく、同意の「意志」表明だとする判断を示した。これはいかにも強引な議論であり、國分はそこにアレントの背理を見る。だが彼女は意志と責任によって構築されるべき社会正義(ないし神学的理念としての善)の理想を手放さないがために、敢えて「不本意な同意」(という曖昧で「無責任」な態度)を、犯罪行為から免責しなかったのではないか。もう一歩踏み込むなら、アレントはここで、自らの論理破綻を感知しつつも、「免責しない」という判断に、敢えて「仕方なく同意」する道徳的「意志」を表明した、と見ることは許されまいか。
 社会正義の貫徹と維持という司法理念を擁護するがために、中動態的な行為を排除したアレントの意志と選択。それはそれ自体、特定の信仰信条のために彼女が無理?な妥協を「不本意」ながら呑んだ/呑まされた、という限りで、すぐれて中動態の本性のひとつが露呈したもの、といってよい。それは「主意」主義擁護への「依存症」でなかったか。
 必然としての法則に従い、それに沿って行動するとき、それは束縛とは意識されない。かえって主体は、必然の裡に自由が実現されてゆく状態を体現している己を実感する。たしかにここで、必然と自由とは矛盾しない。だがその必然とは誰が定めたものだったのか。スピノザのように神に必然を見るなら、この立場は妥当しよう。だが文脈への依存は責任放棄とも裏腹な筈である。ここには、倫理の根源に潜む虚構を解体しつつ再構築するための不可欠だが容易でない第一歩が記されている。それが筆者の偽らざる実感である。

*松本卓也による優れた書評「『中動態の世界』がひらく臨床」本紙3305号、2017年6月3日号参照。本書初期形態連載終了時になされた上岡陽江と國分との対談「意志と責任の考現学」(『精神看護』vol.18,no.2,Mars 2015)が貴重な補助線を与えており、また本書を含む医学書院の「シリーズ ケアをひらく」が瞠目すべき企画であることも付記したい。







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