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評者◆中村隆之
絶対的暴力の牢獄――過酷な暴力の痛みの直覚は、高江や辺野古での反基地の戦いにたしかに通じている
虹の鳥 新装版
目取真俊
No.3335 ・ 2018年01月20日
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■絶対的暴力の牢獄――目取真俊、2000年代の代表作『虹の鳥』の構築する世界を、ひとまずそう形容してみる。04年に雑誌掲載、06年に単行本化、17年に新装版が刊行された。ウミイグアナの長い指趾を大写しにした(セバスチャン・サルガド撮影)新たな表紙が美しくも寒々とした印象を与える。
物語は、1995年10月ごろの沖縄を舞台に21歳の青年カツヤの視点から語られる。4人兄弟の末っ子に生まれ、両親の仲は悪いものの、親の金回りは良い。父はコザ有数の資産家の息子であり不動産業で店を構え、軍用地料で潤っている。そのせいで2人の兄は高卒後に父の経営するアパートの管理人をしてその日暮らしの生活に明け暮れている。カツヤが信頼を寄せる姉の仁美は、基地経済に依存する家族の生き方を嫌い、九州の短大を卒業後に公務員の男と結婚して2人目の子どもをお腹に宿している。ところが、現在のカツヤは買春の斡旋に手を染めており、家族全員にそのことを秘密にしている。 好き好んでやっているわけではない。斡旋の元締めの男の支配から、逃れられない。カツヤは、少なくとも、心底そう思っている。 元締めは比嘉という。比嘉は、カツヤの入学した中学の不良グループのリーダーであり、入学して間もないカツヤをいじめの標的にした。この男は、今日の表現でいえばサイコパスを思わせる無慈悲な人格の持ち主で、相手の心と体のうちに圧倒的恐怖を植え付けて支配する。中学時代のカツヤが経験し、今では比嘉が飼いならす女たちの身の上に起こっていることである。 カツヤの最近の生活は、比嘉がよこす女を自分のアパートに住まわせて身の回りの世話をする。女に客をとらせ、比嘉がゆすりのネタに使う証拠写真を撮影する。女たちはクスリ漬けであり、身も心もぼろぼろになれば、やがて捨てられる。こうした闇商売に手を染める輩にとって彼女たちは「金を生む生き物」だとみなされている。 物語は、小柄で、まだ少女のような顔立ちのマユにカツヤが客をとらせる場面から始まる。読者はカツヤの視点に導かれながら、マユを買った男の車がホテルに向かうと考えるが、向かう先は、カツヤのアパートだ。マユが男に指示したこの意外な行動から、物語は予想外に展開する。 マユは、これまでの女と違って、生気がない。あたかも、彼女が受けてきた想像を絶する暴力の後遺症であるかのように。ところが、そんなマユが時折覚醒したかのように、自分の受けた残忍な暴力を相手に与え返す。そんなとき、カツヤは、マユの目の奥底に何か別の生き物がいるのを感知する。彼女の目の奥にいるのは、彼女の背中に彫られた、色鮮やかなあの刺青――ヤンバルの森に住む、あの伝説の虹の鳥なのだろうか。 『虹の鳥』は、作中で幾度も言及される、95年に実際に起きた事件との関わりで語られることが多い。 「事件は9月の初めに北部の町で起こっていた。小学生の少女が、3人の米兵に車で拉致され暴行を受けた。その記事を目にしたとき、カツヤは一瞬、全身の血が泡立つような感覚を覚えた。普段、米軍がらみの事件や事故の記事に接しても何も感じないのに、この事件には肉体的な不快感さえ生じるほどの怒りを覚えた。砂浜に押さえつけられ、泣き叫ぶ少女の姿が目に浮かび、覆い被さって体を動かしている米兵の脇腹を、刃渡りの長いナイフでえぐる自分の姿を思い描いた。」 小学生の少女が米兵に強姦されたこの事件を契機にデモが起こり、8万5千人が集った10月の県民集会の様子が作中で言及されている。ここで目取真の読者が思い起こすのは、掌編「希望」(1999)のことだろう。この県民集会に片隅で参加した青年が「麦藁色の毛髪」の子どもを絞め殺して森のなかに遺棄し、新聞社に犯行声明文を送りつけた、あの話である――「今オキナワに必要なのは、数千人のデモでもなければ、数万人の集会でもなく、一人のアメリカ人の幼児の死なのだ」。 この青年がつぶやく「最低な方法だけが有効なのだ」という独白は、比嘉の言葉と響きあう――「吊るしてやればいいんだよ。米兵の子どもをさらって、裸にして、58号線のヤシの木に針金で吊るしてやればいい」「本気で米軍を叩き出そうと思うんならな」。 この「最低な方法」は『虹の鳥』でも実行に移される。それが誰にどのように行われるのかは本書をこれから読む読者のために明かさない。ただ、この箇所が本書で描かれる暴力の世界を沖縄の現状と重ね合わせて読み解くさいの要になるとだけ言っておこう。 ただ、そうした読み解きよりも、いっそう切実であるのは、少女暴行に対してカツヤが感じた「肉体的な不快感」を私たちも感じるか否かだと私は考える。95年の事件だけのことではない。2016年、うるま市で起きた同様の事件もそうだ。 「昨年の4月に名護市出身の20歳の女性が殺害される事件が起きました。4月28日に元海兵隊員の米軍属に襲われたんです[……]女性の父親は私と同じ年なわけです。同じ北部地域、同じ時代に生きてですね、どっかですれちがったこともあるはずなんですよ。彼にとって30代半ばでやっとできた一人娘で、その娘の最後の姿が成人式の時に見た姿なわけです。」 これは、辺見庸との対談『沖縄と国家』(角川新書、2017)での目取真の発言である。あなたは自分の肉体でもってこの痛みを本当に想像しているのかどうか。そう私たちに問いかけているのではないだろうか。 そのような想像力を働かせて読むとき、私たちは作中で振るわれる過酷な暴力を対岸の火事のようには感じることはできなくなるだろう。あたかも絶対的暴力の牢獄のうちに閉じ込められるかのように、読者はこの痛みを心中に刻みつけることになる。そしてこの痛みの直覚は、高江や辺野古での反基地の戦いにたしかに通じている。 (フランス文学、カリブ海文学研究) |
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