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評者◆稲賀繁美
海を越え、峡谷に臨む世界文学にむけて――Distant readingからDistance Readingへ――比較文学的アプローチの可能性
No.3338 ・ 2018年02月10日




■欧州の植物園で、亜熱帯アジアの温室を訪れると、時に芭蕉Musa basjooにお目にかかる。文学を嗜む異国の友人と同伴であれば、これがかの日本の俳人Bashoの号の由来です、と説明する。すると、ヘエと感心した反応が返ってくる。それを見計らったうえで、Banana Yoshimotoという作家がいますよね、と畳みかける。あのバナナは芭蕉ですから、吉本さんの号は芭蕉なのです――。これで徳川期から現代にいたる日本文学史の、思わぬ系譜と輪郭とが浮かび上がる。だがbananaとbashoとは、音のうえでは繋がらない。alphabetのみで日本文学史を追ったのでは、こうした脈絡は見えてこない。翻訳届け先とその起点となった言語圏との落差あるいは距離は、両者を比較してはじめて可視化される。と同時に芭蕉はなぜ、あのような南国原産のハイカラな植物名を、自らの俳号に選んだのか、という疑問も沸く。
 西村聡氏の研究によれば、文学的なトポスとしての芭蕉の背景は維摩経にまで遡れる。金春禅竹には『芭蕉』と題する夢幻能が知られ、その名の植物の霊が登場する。ワキは自らの読経三昧の功徳として芭蕉の精の声を聞き、その幻影を目にする。「芭蕉葉の夢も破れて覚めにけり」(「井筒」)とあるが、芭蕉の葉は次々に新芽が育つ一方で、古くなると無残な破れ目を晒す。wabi sabiは『日葡辞書』にも拾われている語彙だが、蕉風もまたそれを踏まえている。江戸の俳人は、『列子』に淵源を持ち、連歌の世界をも踏まえた、文学的伝統に負っていた。
 謡曲のワキとは、時に諸国一見の僧であり、訪ねた土地の霊の声に耳を傾ける。日本に帰化して小泉八雲と名乗ったラフカディオ・ハーンは、時にワキとして秋津洲の地霊に触れる自らの姿を自覚していた。遠田勝氏も指摘したように、「破られた約束」では、前妻の亡霊が後妻に祟る。嫉妬に狂ったシテは無慈悲なまでに残虐なる復讐に狂乱する。その物語に接して、異国出身のワキは思わずthis is a wicked storyと呟く。だが土地の男がハーンにこう囁く。「それは男の理屈で、女の気持ちはそれではすまない」のだと。驚くべきことに、富山大学ヘルン文庫の蔵書に含まれる仏訳古代希蝋文学選には、これと酷似した復讐譚が拾われている。中島淑惠氏によれば、ハーンがそれを繙読したのは、猟奇殺人事件を追っていた北米の新聞記者時代。生き別れとなったレフカダ島出身の彼の母は、狂死を遂げている。
 耐えがたい異語の歌声に魅了される旅人――。それはホメーロスの『オデッセイアー』はキルケーの物語に淵源する文学的トポスであり、ダンテ、テニスン、ボードレール、ジェイムズ・ジョイスと歴代の詩人や作家がその影を纏い、復唱し、変奏し、読み替えてきた。岩津航氏が説くように、それをバンジャマン・フォンダーヌは絶滅収容所を経験したユダヤの民の流浪に託し、エリック=エマニュエル・シュミットは現代中東の難民の姿に重ねている。
 佐藤文彦氏が触れた多和田葉子もユリシーズの「影」のひとりだろう。シャミッソーの『ペーター・シュレミールの不思議な物語』は自分の影を悪魔に売った「おっちょこちょい」の遍歴だが、多和田の『旅する裸の目』は、東独に招かれたヴェトナム出身の女子高校生が西側に拉致され、映画のスクリーンにカトリーヌ・ドヌーヴの「影」を追う物語という設定だ。多和田は『エクソフォニー:母語の外へ出る旅』で母語と外国語との「間」に着目し、両者の「隔たり」に「詩的な峡谷を見つけ」て、その奈落に「落ちて行きたい」という夢を語る。翻訳もまた、言語間の谷間を埋めるのではなく、両者を隔てる影を計測する装置でありたい。巷で喧伝される「距離を取った読書」distant readingではなく、「距離を読む読書」distance reading。そこに刻まれた印影こそ、翻訳の齎す「渡り」migrationの醍醐味ではなかったか。バナナと芭蕉の「間」、言語間の谷間に萌す「影」。そこに「世界文学」が萌え、芽生える。

※日本比較文学会第53回関西支部大会(石川県文教会館。2017年11月4日)シンポジウム「読みかえと書きかえの文学史に向けて」に取材した。なお言及した研究者ほかを執筆者とする『文学海を渡る――〈越境と変容〉の新展開』(三弥井書店、2016年)も参照されたい。







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