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評者◆平井倫行
地獄に堕ちた勇者ども――「平成29年度 第41回 東京五美術大学連合卒業・修了制作展」(@国立新美術館、2月22日~3月4日)都築良恵《神の宮》の展示と、そのギャラリートークの傍らにおいて
No.3346 ・ 2018年04月07日
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■先ごろ博士号を取得した美術史家の松下哲也氏から、初の著作である『ヘンリー・フューズリの画法――物語とキャラクター表現の革新』(三元社)を恵贈たまわった。氏との関係性はそもそも、國學院大學大学院の美学美術史課程在学時におけるものであるが、当時より何につけ無軌道な行動をとる筆者を、氏本人の持つ大らかな個性の内側において、折々なだめすかして下さったことに(ここで述べるのも何ではあるが)一言、お礼とお詫びを申し上げたい。
ともあれその著作の内容であるが、副題にも記されるごとく、本書の目的とは人体造形史における近代的転換を示唆する、極めて意義深いものであった。十八~十九世紀における英国の美術状況、とりわけ画家を取り巻く環境は非常に厳しく、ロイヤル・アカデミーという(まずは)公的な美術学校が組織された背景には、いわば美術家たちの過ごす商業時代の幕開けにおいて、「画家」と呼ばれる者達が「生活をしていくため」の合理的な模索があったが、その渦中、同教育機関の教授として一種特異な働きをしたヘンリー・フューズリという画家の功績とは、果たしていかなるものであったか。それは、伝統的な絵画序列の最上位に想定された「物語画」において、時間芸術と空間芸術、つまりは詩文芸と絵画芸術との差異を解し、その限界をどのようにして調停せしめるかという難問を、当時における恐らくは最新の「魔術的」視覚芸術や舞台演出から学び、自らの作品世界に横たわる「物語性」を「キャラクターとして」表象していくことの、字義通り「方法化」に関わる問題であった。すなわち、フューズリの「画法」とは、人体を表象しながらまた同時に、その身体において作品や場面の有する時系列的な物語性を「記述」するための「技法」であり、その要諦とはまさに、後に続く視覚文化(例えば漫画など)にも繋がっていく人体造形史上の分岐点であったとするのが、本著作の扱う大きな主題の一つなのである。 なるほど考え合わせてみれば、フューズリという画家の持つ技法上の特性とは、観相学的知見に基づく誇張された身振りや表情、過剰な主題設定や構図、強烈な明暗対比、感情表現にあり、演劇的な時間構造や演出効果を絵画へと取り込むことは、その作品の持つ「物語性」を鑑賞者に対し「読解しやすいもの」とする意味で、当代、新たな商業プランとして確立されつつあった美術作品の出版や、文芸ギャラリーにおける連作を前提とした版画収入などへの対応をも視野に入れた、高度な作画形式であった。それは、単に人体造形理論の問題に留まらず、近代画家の在り方に対する、一つのモデルを示したのだといってもいい。 それがため、という訳でもないが、私が丁度この著作を読み耽っていたある日々の狭間、武蔵野美術大学の大学院に所属していた都築良恵氏から、その修了制作展の開催を報せる葉書が投函されたことに対しては、心境的に、無意味な偶然と切り捨てられぬ想いがあった。氏の作品は、大学卒業時からほぼ一連に拝見しており、今回特に優秀賞を授与せられた《神の宮》と題する作品は、何か大切なものを守るかのように自らの身体の内側に神殿を抱きかかえる女性を描いた大作であって、氏が述べるところによるならば、これは「自画像」なのだという。広がりを有しながらも、どこか息苦しさを感じさせる無時間的な林の中、不可思議な逆光を帯びる彼女の体は黒ずみ、自身古木と化しつつあり、この作品に想定されたかしらぬ「物語性」については今、筆者はあえてその内容を知り得ぬも、「今後は世の中に出て創作を続けていく」と語る彼女にとって、本作はまた紛れもなく「現在における」深刻、かつ威容な「自画像」なのであって、この「絵の中の女性」が歩むべき道の先にはいずれ、彼女が臨まねばならぬものが、きっと存在するのであろう。 今日、私の手元には期せずして、二人の友人から贈られた一冊の書物と、その展示の様を収めた一枚の写真がある。短い時間に集約されるように届けられたこの二つの思い出は、生涯における大切な記憶として、決して忘れることはないであろう。 学問も、芸術も、誰に強要されたからといって、その道を選択できるものではない。ただ単純に人生の幸福を求めるならば、その選択は不合理としか言いようがないものである。それでいてしかし、人をしてかの不合理を選ばせしめる、何か「合理的」な理由があるとしたならば、そこには、「それに打ち克たなければ自分であれない」という、いささか古式ゆかしい人間の在り様と、確たる信念が存在しているからに他なるまい。 「あえて困難な道を選ぶ」、こうしたファナティシズムこそは、実に演劇的な発想であり、かつそれはまさしくそのままが「刺青的な」感受性であるといえるが、「逃げてもいい」と誰もがいう中、しかし「逃げない」者だけがその道を進んでいく。 彼らの姿勢と歩みに敬意を表すと共に、その「修了」を、心から寿ぎたい。 (刺青研究) |
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