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評者◆平井倫行
原子心母――開館1周年記念 佐久市立近代美術館コレクション+「現代日本画へようこそ」(@太田市美術館・図書館、5月3日~6月10日)――戦後七十三年、東日本大震災から七年目のこの街の景観によりて
No.3357 ・ 2018年06月30日




■先月末、東北大学で開催された第七十一回美術史学会全国大会に参加するため、久方ぶりに仙台の地に足を降ろした。振り返ってみればあの東日本大震災から七年の月日が経ち、その復興に向けた歩みが今もなお着実に踏みしめられている現実に想いを馳せると、ここに到るまでの年月は長かったというべきなのか、はたまた短かったというべきなのか、言葉と言葉の間に存在するものの曖昧さと齟齬に、確かに困惑している自分がここにはいる。
 本年はまた終戦から実に七十三年が経過された時節にもあたり、これは明治維新から数えるならば丁度百五十年の記念すべき年にもあたっていて、このあまりにも長大な時間の経過が包括する重すぎる「重み」とは果たして、我々にとりどれだけ多くの意味を有しているのであろう。日本の近代化の問題を、仮に一言に、あえて西洋という他者から常に「対される」関係に準ぜられた、挫折と敗北の歴史と想定したとして、その負うべき傷、雪ぐべき屈辱から今日、我々は一体何を語るべきなのか。
 まさしく先ごろ六月上旬まで、群馬県にある太田市美術館・図書館で開催されていた現代日本画をめぐる盛大な展示の意義も、そうした我が国の持つ歴史性や、そこから見出される今日の状況と照らし合わせることによってこそ、より大きな意義が生じるものと信ずる。それは、この国が明治期以後、何を自覚的に背負い、そして何をこそ克服してきたのかという、本質的な問いかけにもなり得ていることであろう。「日本画とは何か」、それを問う時、我々は必ず「国家」と「近代」という論題を免れない。
 そもそも、日本美術史の文脈において、「日本画」という表現はまず「西洋画」に「対する」ための語として造成されたもので、のみならず、往時の日本には「美術」や「絵画」、またそれに基づく制度的な教育という意識さえ、存在してはいなかった。
 明治二十年、東京藝術大学の前身である東京美術学校が設立された当初にせよ、西洋画は専修科として設置されておらず、日本画のみ学ぶことが出来たという事情もまた、その背景に介在する力学を強く物語っており、それは「日本」という国号が冠されるところの「日本画なるもの」が実は、国家的なイデオロギーと必ず無関係ではなかったことを示しているが、その意味において昭和二十年の敗戦は、そうした「政策」と不即不離の関係にあった日本画が、自らの存立基盤を問い直す大きな契機ともなった訳で、GHQ占領下にとなえられた、世に言う「日本画滅亡論」も、いわば国家衰亡という時代的な危機意識の中で見出された、「没落のヴィジョン」の一種に他ならなかった。
 果たして、本展の定義する「現代日本画」とはまさに、当該期間としての大戦後から今日に及ぶまでの日本画全体の動向を指し示すものとして、その設定においてからが既に、プロブレマティックな論点を含んでいると言い得よう。事実、本展に際し特に「現代」を代表する「日本画家」として出展した市川裕司、内田あぐり、岡村桂三郎、谷保玲奈、山本直彰らの作品を概観する時、これら世代も立場も異なる芸術家に含まれる「日本画なるもの」と、その解釈の多様性としての「現代」の様相には、そこに素朴な意味での「伝統」と「権威」を要求する者達の視線を大きく戸惑わせる、豊饒なエネルギーで満ち溢れていたはずである。現在、日本画をして日本画たらしめている根源的な原理とは、恐らくはこうした各芸術家の自由かつ闊達な創造から、抗い難く生じる可能性の因子として、それはむしろ、「変化し続けること」の中に内在する「透明な核」のごときものであるように、思われてならない。

 「伝統とは創造である」

 岡本太郎はかつて『日本の伝統』において、このようなことを述べていた。
 かくした言葉に表明されるのは、既成の秩序や枠組みによるのではない、新たな時代の、新たな価値を、自らの手で切り拓いていく精神性と言えるであろう。高村光太郎がその「緑色の太陽」に記すごとく、芸術的創造の価値は、必ずしも自らが生じ、また属するところの否定にも肯定にも、支持されるものではないのである。
 不易流行、それはもとより変化を否定する精神ではない。
 明治以降、我々は常に何がしかの意味における「敗残の風景」の中から、己自身を救済し続けてきた。
 松田修は戦後七十年代の景色の中に刺青を、敗北によって立ち、傷において戦う人間意志の象徴としたが、破壊されるごとに幾たびでも「再起」し、瓦礫と焼け跡の中から、その瓦礫と焼け跡なりの正義と倫理を問い、「より善きもの」へと「再生」することこそが、我国の「近代的伝統」なのである。
 二年後に東京オリンピックを控えた平成三十年六月、庭園の紫陽花は、清楚な雨に濡れている。
 今日あえて、こう述べてみるのもよいであろう。
 日本画とは絶えず「選び取る」ものであり、またそれは、絶えず「取り戻す」ものである。
(刺青研究)







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