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評者◆平井倫行
ヰタ・セクスアリス――東京国立博物館・フィラデルフィア美術館交流企画特別展「マルセル・デュシャンと日本美術」(@東京国立博物館平成館、十月二日~十二月九日)
No.3377 ・ 2018年12月01日
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――彼のもっとも美しい作品は彼の時間の使い方である ピエール・ロシェ
なんでもありという途方もなく無意味な言説に付き合う者は、きっとイカレている。 今年没後五十年を迎えた「現代美術の父」マルセル・デュシャンの展覧会が現在、東京上野・国立博物館で開催されている。 本展はまた米国・フィラデルフィア美術館との共催企画として、同館の所蔵する世界有数のデュシャン・コレクションより貴重な初期油彩画、オブジェ、写真、その他メモ類を含む関係資料など百五十点あまりを紹介した大規模な展覧会であり、二部構成のうち第一部ではデュシャンの生涯を中心とした「デュシャン 人と作品」を、そして第二部では「デュシャンの向こうに日本がみえる。」として、その有す芸術的特性が、我が国の美意識とどのような形で並置せられるかを問うものである。 二十世紀の美術界、ひいては西洋美術史の伝統的枠組みに大きな転換を与えたデュシャンは、一八八七年、フランス北部のブランヴィル・クルヴォンに生まれ、一九〇二年から始められたその「画家としての」研鑽の過程においては、印象主義、サンボリスム、フォーヴィスム、そしてキュビスムへとおよぶ多様な前衛様式の影響を受け、かくて結実された《階段を降りる裸体 No.2》は、一九一三年のアーモリー・ショー(ニューヨーク)で発表されるやいなや、たちまち一人の青年画家を、大きな業界的スキャンダルの渦中へ投ずることとなった。 「デュシャンの」人生は、ある意味で初めてのこの成功を基点とした「延長」や「遡行」により位置づけられることで、いささかなりと把握し易くなるようにも思われるが、しかしあくまでもその「芸術家としての」人生において、恐らく最も興味深いのは、芸術家はそれでいながら、かの時にはすでに絵画制作を「放棄」することを固く決意しており、また事実、(偽りなく)「放棄」したことにある、と述べるべきではないであろうか。 まさにデュシャンの投げかける「問題」とは、この稀代の芸術家と芸術との関係性における「それでいながら」という逆説的一語に、尽きるように思われる。 ありふれた大量生産品を「芸術家が」「選択」することで、本来の用途とはまるで異なった別の文脈へと、その物の有す意味合いを記述し直すというレディメイドの方式とは、その「画家による絵画の放棄」後に試みられた、言語・文法的実験であった。《泉》と題す男性用小便器を「作品」として展覧会に出品したのも、いわばそうした動向の中で生まれた一つの「用意された神話」である。 結果、「無審査による開かれた展示」という極めてモダンな思想を前提としたはずの主催側がこれを拒絶したことは、(是非はともあれ)その制度自体が胚胎する倫理上の矛盾を広く露呈することともなり、かくてデュシャンはこの「少なくとも芸術品ではない品」を、芸術とは相反する形において、その史的(詩的)文脈が決して無視しえぬ物体に書き換えることに成功した。デュシャンの行動とはむしろ、その在りえたかもしれない芸術的価値を積極的に否定されることによって、それにより生ずるであろう議論の種子を掌中発芽させるための、巧妙なユーモアであった、とさえすることが出来る。 「アートという、さして重要でもない遊び」とデュシャンは臆面もなく公言しながら、しかし彼は生涯を通し一貫して、美術業界「とは」関係をし続けた。 このある種矛盾した姿勢は、その誤解さえも論じられるべき一つの対象として問題視されるのを、未必のうちに、強く要求しているかのごとくである。 見えるものとしての芸術ではなく、考えるものとしての芸術、今回「マルセル・デュシャンと日本美術」と銘打つ以上、第一部以上にその展示コンセプトの焦点となるべきは、厳密に後半第二部にこそある、と認識せられなければならないが、とはいえいうまでもなく「字義通り」の仕方においてレディメイドと利休の花入が繋がろうはずもなく、また「主催側」の意図にしたところで、それを大真面目に語ろうことにないのは、明らかである。 ここで提起されているのは、芸術を「考える」というその「鑑賞者側」の姿勢を問う態度であり、またあえて述べるのならば、大真面目な顔で大真面目に提起されること、制度の側が「これでありしや」と提示する物事の自明性を、それに対峙する者は絶えず「疑いの眼差し」をもって見つめる必要がある、ということである。 「解答はない、そもそも問題がないのだから」 デュシャンはかつて、その終生の問題作《大ガラス》について、このように述べていたとされる。 あたかも刺青のごとく、その身に拭うことの出来ぬ「謎」を纏い続けた怪傑は、一九六八年十月二日、ヌイイのアトリエで奇妙な死を遂げた。 なんでもあり、といわれる世の中においてしかし、「ゲーム」には規則が必要である。 「解答は」ない、さりながら「問題では」あり続けよう。 「解決しない問題」を有し続けることの誠実さを、デュシャンは今もなお、後世に向け提起し続けている。 (刺青研究) |
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