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評者◆藤田直哉
一九八四年の保守論壇(3)――清水幾太郎「ジョージ・オーウェル『一九八四年』への旅」を読む
No.3378 ・ 2018年12月08日




■一九八四年の保守論壇、特に『諸君!』が、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』を強く推していたことを、これまでの二回で確認してきた。特に、香山健一には『一九八四年』の影響が強く、ブーアスティン由来の「メディアが構築する現実」という認識が『一九八四年』と重なって、現実の政治に対する理解の枠組みに影響を及ぼしている可能性を論じた。中曽根政権のブレーンだった香山がこのような主張をしているということに、何か肝が冷える思いをさせられる。
 『一九八四年』的な、「メディアが構築する現実」という認識は、同時期の保守論壇で盛んに書かれた、朝日新聞はデマ新聞であるとか、戦後の人々はGHQに洗脳されているとか、公害問題はでっち上げだ、という主張の背景に共通して存在している世界認識の枠組みなのではないかと思われる。まだまだ長い検証が必要だが、現時点での印象としては、この時期の『諸君!』が提示した世界認識や論法が、断片化して、現在のネット環境の中でも使われ続けているのではないかと感じている。
 さて、『諸君!』で一九八四年の間、一年間、オーウェル論を連載していた人物がいる。現代思想研究会で香山の指導者であった、清水幾太郎である。「ジョージ・オーウェル『一九八四年』への旅」という連載を行い、同年に単行本を刊行している。鳴り物入りの目玉連載だったと推測される。
 清水は、関東大震災を受けて書かれたデマ論『流言蜚語』の著者でもある。一九四六年に再刊されたときに「報道や輿論が人間を動かすのと同様に、流言蜚語も人間を動かす。いや、流言蜚語だけが人間を動かす唯一の力であるような時期もある」(ちくま学芸文庫版、p12)と書いている。オーウェル論もその感じなのかと先入観を持って読み進めていくと、全く異なる内容に面食らうことになる。むしろ、これは自分が連載している『諸君!』や保守論壇に対する批判や抵抗なのではないかとすら思えてくるのだ。複雑で多義的で、隠喩や仄めかし、提喩や換喩を駆使したこの文章を正確に読解するのは並大抵の作業ではないが、この連載の関心に沿って、読解していってみたい。
 清水は、『動物農場』や『一九八四年』などの代表作にフォーカスするのではなく、インド帝国警察官をやっていたオーウェルのビルマ時代に拘る。『ビルマの日々』でのビルマ、『パリ・ロンドン放浪記』での貧困層、『ウィガン波止場への道』での炭鉱、それらを体当たりで書くオーウェルに肉薄しようとしている。
 この書籍は、清水の自伝でもある。オーウェルを読む清水自身、が前景化する書き方によって、一見無関係に見えるもの同士を「重ねて読む」姿勢が、書き手自身という手本を通じて示されている本である、ということに、留意してほしい。
 一九四二年、「ビルマ派遣林一六一一部隊所属の陸軍徴員」として、清水はビルマにいた。その経験と、オーウェルの姿を並列させた叙述をしている。特に、植民地主義の暴力について、鋭敏な目線が見え隠れする。たとえばこういう批判を行っている。「国際学友会の仕事は、『アジアの盟主』としての日本を宣伝するに急で、アジア諸国の歴史、文化、風俗、慣習を知ろうという態度は全く欠けていたように思う」(p39)。「多くのビルマ人がスパイに仕立て上げられ」たことも嘆いている。「兵隊は、公衆の面前で、しかも長老格のビルマ人を遠慮会釈なく殴った。勿論、スパイ扱いや殴打のほかにも、書きたくない沢山のことがある」(p39)という記述は、「インフラを作ってやったんだからいいだろ」的な粗雑な植民地主義の肯定とは異質な、経験に基づく良心と内省の気配が見える。
 前半では、オーウェルがビルマで犯した罪、「贖わねばならぬ、途方もなく重い罪」に清水は強く拘る。オーウェルはそれが何なのか語ることが出来ず、沈黙していたと述べ、それを執拗に追跡する清水自身の姿勢からは、清水自身が語ることのできない罪を抱えたまま隠喩のようにそれを伝えているのではないかという印象すら受ける。償いえない罪、「事実」が、「語られない」ところにあるという認識を示している点は、(あらゆるものが作られたプロパガンダであるという汎プロパガンダ的な認識論と対比して考えると)その批評性がはっきりと分かる。
 清水が、自身の経験とオーウェルの書いた内容とを重ねる部分は他にもある。彼が指導的立場で関わった六〇年安保の直後、「それが残した混乱」の中で「オーウェルを狂気のように読んで、ボロボロにしてしまった」(p161)という。「あの運動に揉まれている最中」に「自分が片隅に身を置いている運動に見られる沢山のインチキ、執拗な嘘……」があった。そして『カタロニア賛歌』などでスペイン内乱を勉強し「あの『構造』が一つであることを知って、ゾッとした」(p161)という。
 そして、弁解のように、「『六〇年安保』の後の或る期間、私――或いは、私たち――は、政治を経済に解消しようとしていた」(p234)と書く。「コミットメントに懲り懲りした」(p215)。平和運動を行っていながら、後に核武装論者となるような、左や右へと転向を繰り返してきた(と言われる)清水幾太郎の人生の弁明のようである。細かくは論述しないが、その細かく複雑な機微は、オーウェルを単に「反共」の道具に使う一面的な議論とは一線を画している。賛成するかしないかは別問題だが、激動の時代を生きた知識人の内奥のドラマとしては、実に面白いものである。
 連載は後半に近づくに従って(『動物農場』『一九八四年』に触れる時期が来るに従って)、当時の『諸君!』で騒がしくがなり立てられていた議論に同調する気配を見せる。反共、反スタ、戦後の日本はGHQによって罪悪感を植え付けられた、という類の議論を肯定しているかのように見える記述がある。
 これはややこしい書物、戦略的な書物である。清水幾太郎が、軍部や警察が厳しく監視していた戦前に、朝日新聞や読売新聞で執筆していたことを思い出してほしい。鶴見俊輔や竹内洋が指摘したことだが、清水の文章は、権力に阿り迎合しているフリをしながら、そこかしこに抵抗や皮肉を込めるという戦略になっている。その戦略の良し悪し、(偽装)転向については様々に議論されてきたが、今は深入りしない。清水がそのような戦略・レトリックを駆使してきた書き手であるということさえ確認してもらえればよい。
 清水は『諸君!』の論調に迎合する歴史修正主義者であるようにも見えるし、同調しているフリをしながら抵抗していたようにも見える、厄介なテクストである。個人的には、「抵抗」の痕跡をむしろ強調してみたい。
 引用はしないが、あらゆるものをプロパガンダに還元し、歴史すら修正していくポストモダン的な認識それ自体に抵抗していると思われる記述があり、政権に無防備に近づいていく者たちを警告していると思しき箇所があり、『一九八四年』が、消費社会の恐ろしさを描いているという意見の紹介もあり、「敵味方」構図を作り「人民の敵」を名指すメカニズムについての批判もある。これは「反共」で結束しパラノイアになっていった当時の保守論壇批判になっていないだろうか。オーウェルの伝記作者・クリックのこのような発言を引用しているところに、微かな意図が見え隠れする。「『一九八四年』がロシア人と同時に私たちを風刺している」(p242)。
 清水がこだわるのは、「事実」である。『一九八四年』をクリックが「風刺」だと述べることに反対し、清水は「事実」だと繰り返し述べる。オーウェルが「事実」を愛する人間だったことは本書で何度も強調される。「オーウェルに想像力が乏しかったこと、彼が事実を愛したこと」を論証し、『一九八四年』は「ソ連の『事実』を忠実に描いたまでのこと」(p223)であると言う。決して、それを笑えるSFとして読んではいけないと清水は繰り返し警告する。その証拠に、出版者フレドリック・ウォーバークの発言を投げ出す。『一九八四年』は「死、破滅、汚穢、残虐、絶望の臭気を放っている」(p245)。
 結末部分、オーウェル批判の大演説を清水は行う。その末尾で、「オムレツという社会主義を作り出すためには、卵を割らねばならない」というオーウェルの言葉を引き、「卵を割る」はソ連の大粛清、オムレツは「甘美な社会主義」を指しているように読めると言いながら、「ソ連ばかりではない、中国でも、東ヨーロッパ諸国でも、インドシナ半島でも、何千万、何百万、何十万の卵が割られたが、一向にオムレツは生れない」(p268)と書く。そこに「ビルマでも」という、語られていない言葉の残響を本書の読者は読みるだろう(これだけ前半で強調されているのだ)。オムレツとは、社会主義だけではなく、大東亜共栄圏でもよい、ということに当然気づく。「あの『構造』が一つである」のだから。
 語られなかった罪、暴力、そして「事実」への強調などから鑑みて、清水幾太郎が一九八四年の保守論壇の論調に――そして現在のネトウヨ・歴史修正主義的な認識の起源に――抵抗する意図を込めていたと本書を解釈してもいいのかもしれない。清水がアイロニカルな戦略的文章で抗おうとしていたものは、汎プロパガンダ的な認識論、認識論的なニヒリズム、とでも呼べるものだったのではないか。
 「彼が『被害者』であったモールメンの場合の生々した描写とは違って、彼が『加害者』であったから、すべてが霞の中に消えているのではないか」(p21)。その語られなかった沈黙の闇の深さを意識させることそれ自体が、ポストモダン化した保守論壇への抵抗の戦略ではなかったか。全面的な叛逆とまでは言わないが、微かな抵抗を潜ませていている箇所に、どうしても僕は目が行ってしまう。
 連載の結末で、「君が死の床で書いた『一九八四年』が、こういう傾向を何処まで阻止しているのか、残念ながら、僕は知らない」(p268)と清水は書いた。同じことは、最後の著作となった自身のこの連載を書いているときにも予感されていたのではないか。清水の著作が、ポストモダン化した保守論壇の傾向を何処まで阻止しているのか、残念ながら、僕も知らない。
(文芸評論家)
――つづく







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