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評者◆平井倫行
見世物語――「木下直之全集 ―近くても遠い場所へ―」展(@ギャラリー エー クワッド、2018年12月7日~2019年2月28日)
No.3388 ・ 2019年02月23日
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■――人は一人で生まれてくるが、死ぬ時は二人で死ぬ。
ある学者の言葉 極論をいうと、心から「そこに行きたい」と思える場所はもうこの世にはない場所ばかりであるという気がしてくる。それは一大スペクタクルを伴なうような自然風景でも、知的好奇心を満たしてくれる、ある歴史上の奇跡のような、些かはサイエンス・フィクションの雰囲気を伴う「ありえない場所」という意味でもなく、ごく単純かつささやかな、例えばそれは塾帰りに近しい家族と連れ立って出掛けたあの「おしゃれ横丁」の喫茶店であったり、あるいは小田原城内に当時まだいた、象のウメ子の柵の側であったりする。 それらはいわば「場所」というよりはむしろはっきりと「印象」であって、いま行こうにも取り留めがなさすぎるから、仮に当時の地図が手元にあったとしても、そこに行き着けるとは限らない。 いかに優れたGPSがあろうとも、少なくともこの地理をたよりに進んでみても、望みゆくその「場所」には決して「到達」することは出来ないであろう。 問題となるのはだから、常に「地図」ではなく、その「行き方」だ。 現在、東陽町の竹中工務店一階に併設されたギャラリー エー クワッドにて開催中の展示は、あるいは「その場所」へと向かい得る、多くの「手掛り」を与えてくれるものである。 当ギャラリー企画展の百回目を記念し開かれた本展示は、アドバイザーである木下直之氏が現在までに著した十二冊の本を全集と「見立て」、その業績を俯瞰するものである。 美術館学芸員として、また後に東京大学大学院文化資源学研究室教授として、そのフィールドワークと独自の視点に基づく知見の数々は、近代美術を中心としながらも一貫して、美術に隣接する領域、物事と物事との狭間に存在する境域を対象化することを目的としてきた。それは、日常淀みなく流れていく我々の生活の「当たり前さ」の中で見過ごされている「違和感」、風景に存在する「何故?」を問うことから、この国の近代、復興の最中に失われてしまったもの、歴史や世の途中から「ある都合によって」隠されたり、消されてしまったものへと向けられた、学者の深刻かつ朗らかな視線である。 男性裸体像、駅前彫刻、油絵茶屋、氏の関心は当人述べるごとく多岐に分節し、領域を通貫して交差するが、わけてもその重要な鍵概念のひとつと位置づけられるのは、「作品」と差異を有する物体としての「作物」であり、これは美術品に代表せられる意味での近代的な制作物とは自ずから性質を異にした、主に祭礼や祝事の際に見世物として供される「その場限りの」造形物であって、ゆえにこそ誰も、それを「永久に残そう」などとは考えない。一時この世に現出し、後には何も残さぬこのエフェメラルな存在は、モニュメンタルな制作物の恒久性を支持する「真実さ」や「真面目さ」とは別個な価値体系に属する問題として、時に辞書的に「まがいもの」「にせもの」「事実ではない虚構の事柄」といった意味をも含意し、かくした「定義の振れ幅」にみても瞭然のごとく、これがいわゆる西洋主導の美術史における「正統な記述」からは大きく逸脱するものであるのは明白であろう。 「あるべき書記」からみては異質(不適切)な単語として歴史からとりこぼされた内容は、刺青は芸術(作品)であるか、というがごとき議論にしばしば象徴される、その不適切さゆえの必然性として「字義通り」、編集上の合理によって排除され、それはまた不可分に現実の風景へと反映される。本展口上において木下氏が「境界線をめぐる旅の案内板」とした、高岡市路上の看板に向ける「どっちなんだ」の情感とは、してみれば、世が「体裁」という名の威儀(装丁)を整えようとした際に生じた文体選択のミスや、校正漏れした「誤字」「脱字」を拾い上げ、それを別の文脈から新たな主語へと構文しなおさんという心の動きであり、それは一言でいって、「歴史を行間から綴り直すため」の瞬き(瞬き)である、といってもよい。 少なくともある意識上の文脈において、小田原駅の小便小僧も、あの「おしゃれ横丁」で食べたバニラアイスも、今もなお脳中、当時のまま在り続けており、これは韜晦でもなんでもなく、人の一生はそんな「印象」だけで十分以上に満たされていける。 するとやはり問題となるのは、誰にしも有すであろう「そうした場所」には、望んでももう決して行くことは出来ない、という物理学上の現実にあるが、だが仮に、たとえ単身「そこ」に臨むことが難しくとも、「誰かをそこに連れていくこと」はできる。 見方によれば、時に木下氏が冗談めかしつつ吹聴する「子供を誘拐中の大人」を描いたというあの「歩行者専用」の道路標識は、「こっちに行きたい」とぐずる子供を無理やりに引っ張る図にも、あるいは逆に、それに「折れて」これからどこかへと手を引かれていく大人の姿を描いたもの、といえるかもしれないのだ。 「近くても遠い場所」、それは常に、僅かな記述と記述の「隙間」にある。 (刺青研究) |
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