書評/新聞記事 検索  図書新聞は、毎週土曜日書店発売、定期購読も承ります
評者◆奥瀬陽平
読者の「いま」と「ここ」に現出する語り手の心――実に稀有な経験を本書の読者はするだろう
海の乙女の惜しみなさ
デニス・ジョンソン著、藤井光訳
No.3407 ・ 2019年07月13日




■ジャンキーたちの徹底して破滅的な人生模様を乾いた筆致で描きカルト的な人気を博した短編集『ジーザス・サン』(一九九二年)から二十六年、本書は二〇一八年に刊行されたデニス・ジョンソンの第二短編集にして遺作となった作品である。ベトナム戦争を題材に無為と残酷さのなかで絶望と狂気に蝕まれていく人間のリアルを描いた大作『煙の樹』(二〇〇七年)で全米図書賞を受賞し、現代アメリカを代表する作家としての地位を確立したジョンソンだが、二〇一七年に肝臓癌で六十七年の生涯を閉じた。
 本書に収められた五篇はどれも濃厚な死の気配でおおわれている。ともに一人称の淡々とした語り口で人生を振り返るが、はっきりとしたプロットはなく、結末は開かれている。ふと目に入ってきたことや小さな記憶をきっかけに瞬時に場面が変わる凝縮された文章は読み手を選ぶかもしれない。しかし記憶を辿る語り手の言葉にはいつも詩の響きがある。ジョンソンの創作活動は詩や戯曲や紛争地域のルポルタージュなど多方面にわたったが、なによりも詩人であることの証左である言葉の集中力が全編に溢れている。
 決して出すことのない手紙を薬物依存症更生センターから家族や知人に宛てて書く「俺」が、まるで戦場のような頭のなかで幻覚と戦いながら神と悪魔に毒づく「アイダホのスターライト」。汚れた血を売る路上のヤク中に成り果てた「俺」が、十八歳のときに郡刑務所で過ごした同房者たちとの四十一日間を回想する「首絞めボブ」。この二編は『ジーザス・サン』の世界の流れを汲んで、現実のような妄想と、妄想のような現実が展開していく。そこに落伍者の憐憫や感傷はまったくない。凄絶な場面であるほど捨て鉢のように放たれるユーモアが切れ味を増す。
 一方、「墓に対する勝利」の語り手はより作者に近く、自らの死を予感していたかもしれぬと思わせる文章も出てくる。「大したことではない。世界は回り続ける。これを書いているのだから、僕がまだ死んでいないことは明らかだろう。だが、君がこれを読むころにはもう死んでいるかもしれない」。知人の老いと死に立ち会う作家の「僕」は、書くことについてこう言う。「自分の身に起こることをすべて紙に書き留め、うまく形にして、光のなかに投じる」。そのようにして投じられた言葉は、時間と場所を自在に行き来する光となって、老いと死のテーマに立体感を持たせる。「ドッペルゲンガー、ポルターガイスト」では、大学で教える詩人の「私」が、のちに詩人として成功を収めた教え子についてこう語る。「マーカス・エイハーンは筆舌に尽くしがたいものを言葉にしようとしているのだ。彼は語り手の心を、読者が実際に読む『いま』と『ここ』というその場所に現出させる。実に稀有なことだ」。
 その実に稀有な経験を本書の読者はするだろう。ジョンソンこそ「筆舌に尽くしがたいものを言葉にしようとしている」のだから。十の断章からなる表題作「海の乙女の惜しみなさ」は、小さくつながったエピソードで、六十代広告マンである「私」の人生の悔恨を浮かび上がらせる。「今になってみれば、これから生きる年数よりも、過去に生きた年数のほうが多い。これから楽しみにすることよりも、思い出すべきことのほうが多い。記憶は薄れつつあり、過去のことはそれほど多くは残らない。もっと多くを忘れてしまっても、私としては構わない」。そんな「私」の諦念が、読者の「いま」と「ここ」に現出する。最も静寂な音の話と炎に呑み込まれた高価な絵。死にゆく元妻との電話と知り合いの画家の自殺。様々な場面の記憶のなかにいる語り手の心が読み手の「いま」と「ここ」に現れるのだ。そんな詩人の声を捉えて日本語にするには相応の耳がいる。訳文は見事というほかない。
 今年に入り『ジーザス・サン』(柴田元幸訳)が復刊され手に入りやすくなったという。未読の方は本書ならびに『煙の樹』(藤井光訳)と合わせて手に取ってみてほしい。
(翻訳者・ライター)







リンクサイト
サイト限定連載

図書新聞出版
  最新刊
『新宿センチメンタル・ジャーニー』
『山・自然探究――紀行・エッセイ・評論集』
『【新版】クリストとジャンヌ=クロード ライフ=ワークス=プロジェクト』
書店別 週間ベストセラーズ
■東京■東京堂書店様調べ
1位 下戸の夜
(本の雑誌編集部下戸班編)
2位 ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー
(ブレイディみかこ)
3位 東京凸凹散歩
(大竹昭子)
■新潟■萬松堂様調べ
1位 一切なりゆき
(樹木希林)
2位 未来の地図帳
(河合雅司)
3位 ノーサイド・ゲーム
(池井戸潤)

取扱い書店企業概要プライバシーポリシー利用規約