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評者◆高橋宏幸
鴎座『火曜日はスーパーへ』&若葉町ウォーフ『やって来たひと』――佐藤信の試み
No.3416 ・ 2019年09月21日
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■かつて黒テントの中心として名を馳せた佐藤信の活動が、2010年代に入ったあたりから、また新しい展開を見せている。いや、そもそも常になにかを試みて、その一つ一つがつながり、いつしか別のものへと至る過程そのものが、かれの運動というものだろう。実際、振り返れば、その原型はすでに唱えられていた。
90年代後半より公共劇場の芸術監督を務めることは、民衆演劇として公共というタームを用いたことに遡れる。かつて公共という言葉は、公権力の場を指していた。だから、あえて公共空間を民衆の手に奪還するべく、その言葉は用いられた。また、民衆という言葉は、1980年代に日本で見えなくなった民衆像を求めて「アジア演劇」を唱えたことにつながる。フィリピンに赴き、フィリピン教育演劇協会(PETA)で用いられるアウグスト・ボアールの「被抑圧者の演劇」のためのワークショップを日本に導入した。それは、黒テントで上演されたブレヒトの『処置』などの教育劇ともつながるだろう。どれか一つが基底になっているのではなく、リゾームのように連関している。 むろん、「アジア演劇」も、現在活動されている以上、いま、ここのなかにある。たとえば、2010年代に入ってから行われている海外でのワークショップは、主に中国の諸都市を舞台にしている。プロフェッショナルからアマチュアまで、それこそ民衆として様々な人々がワークショップに参加をして公演する。昨年からは、横浜の若葉町に作られた劇場、若葉町ウォーフを運営して、そこを拠点に「波止場のワークショップ」として開催されている。今年も中国の諸都市、ベトナムやインドネシア、シンガポール、日本のさまざまな地域から来た20名ほどが、およそ20日間のワークショップを経て、『やって来たひと』という作品を上演した。 金芝河の詩をモチーフに、参加者がそれぞれのシーンを組み立てる。映像に映し出されるように、どこかの廃墟のような空間で、人びとのすれ違いや邂逅、なにかやりとりするような、いくつもの抽象度の高いシーンで構成される。身体性に特化されるのでもなく、強い物語性があるわけでもない。まるで、観る側が期待する典型的なアジアという表象を裏切るかのように、それは淡々と進む。かつて日本が夢見た南洋諸島や大陸への憧憬もなければ、国家や国民性といった二次大戦後に作られたレジームの反映もない。それらのフィクショナルな空間が退けられて、ただ人びとだけが抽出される。その禁欲的な公演は、むしろ「アジア」なるものを見るための方法を、見ている側に考えさせる。 また、それ以外では、自身のユニットである鴎座で公演活動をしている。同じく若葉町ウォーフで初演されたフランスの現代戯曲である、エマニュエル・ダルレ作の『火曜日はスーパーへ』は、早稲田のどらま館でも上演された。この公演は秀逸だった。 ひとり芝居で、男性から女性となったトランスジェンダーの役を俳優の龍昇が演じる。内容は、老齢の父親の身のまわりの世話をするために毎週火曜日に、娘となった女性が訪れるというものだ。そして、内省的なモノローグによって話が紡がれる。ただし、そこで話されることは、彼女がまわりからどのように見られているのか、という関係性のなかにある日々だ。たとえば、スーパーを訪れたとき、近所を歩いたとき、そして家族である父がいまだに息子として望む姿についてなど、彼女が見られる視線は多岐にわたる。それはひとり芝居であっても、モノローグらしからぬ、いくつもの会話の連なりとシチュエーションによってできあがっている。 また、舞台も余計な舞台美術などの設えをほとんど排除して、まったくシンプルなものとなっていた。かといって、ミニマルアートのようにシアトリリティを排除した、かぎりなく抽象へと至ろうとするものでもない。ただ、ひとりの俳優が、自身がトランスジェンダーの女性として世間から、とくに近親者からどのように見られているのかということを受けて、言葉を発していく。それは、ホモフォビアによる視線や行為があったとしても、饒舌であり、淡々としたものだ。汗みどろになりながらも、その大柄な体で演じる俳優が映える演出だ。 この、ただあることを映そうとする演出方法は、老年に至りできあがったような類のものではないだろう。むしろ、今もって、いろいろなことを試す過程として、このような演出もある。シンプルさのなかで洗練へと至るものとも違う。ましてや、老成といった大家ぶるものとも違う。それらからほど遠い地点で、まだ通過点のように持続と運動を重ねている。 |
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