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評者◆帷子耀×宗近真一郎
不自然が俺を呼んでいるジャスティンは、ラース・フォン・トリアー監督は、ピロリ菌に感染していなかったのだろうか
No.3426 ・ 2019年12月07日
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■9月から始まった作家の伴田良輔氏プロデュースによるトーク・シリーズ「詩と批評 ポエジーへの応答」。批評家の宗近真一郎氏をナビゲーターに、現代詩人を迎えて毎月一回のトークを行い、独自の視点から口語自由詩の可能性について、多岐にわたる話題から迫っていく。本企画と平行して、本紙でも出演者によるイベントレポートを半年間、短期連載として掲載していく。第二回は10月23日、ギャラリーSPINORにて開催され、詩人の帷子耀氏を相手にトークが繰り広げられた。
(編集部) ■極東の島国に住む者の間から大震災の黒い津波がまだ引くことがなかった二〇一一年五月にフランスで公開された映画『メランコリア』。宗近真一郎はこれを何時何処で誰と観たのだろう。二年後に刊行された宗近の『パリ、メランコリア』を最近になって手に取り私はこの映画を知った。メランは「黒」、コレは「胆汁」、黒胆汁が過剰になる病をギリシア語でメランコリアという。ジャスティンの母親ギャビーを演じたシャーロット・ランプリング。私は私の夢の中で彼女に何度も会っていた。夢ではなかったのだ。生きていたのだ。生きていた証拠に美しく老いているではないか。ジョン(キーファー・サザーランド)は姉クレアの夫で、ジャスティンの「新郎」はマイケル(アレクサンダー・スカルスガルド)だぜ、宗近さんよ。それにジャスティンは誰も裏切ってはいない。人を裏切る者は自身のために用意された林檎園の写真を肌身離さず持っているわと受け取った次の瞬間、その場に置いて行ったりしない。ジャスティンは、ラース・フォン・トリアー監督は、ピロリ菌に感染していなかったのだろうか。しきりに胃が痛む者にはピロリ菌の検査をぜひ勧めたい(いかなる抑鬱的環境にあっても向日性を損なうことがない宗近には不要と思われる)。投薬により二週間ほどで除菌できる。本を読まなくなり映画を観なくなり何十年もが過ぎ、その時間はもはや取り戻しようがない。詩だけは飛び飛びに眺めていたつもりだった。見えていなかったことが多すぎる。安川奈緒を知らなかったことに動揺した。『パリ、メランコリア』が私に教えてくれた名だ。「現代詩手帖」十一月号詩書月評欄冒頭でも宗近は安川にふれている。ただ、いまの若い人たちの詩は、「無」だという者と、二〇〇〇年代の詩人たちの詩という括り方をする安川とは似た者同士にみえてしまい、雨や花に視点を移したくなるというのが私の現在だ。不自然を恐れず、書いて行こうぜ。 (帷子耀) ■トリアーで来ましたか。その通り、かつて『愛の嵐』(リリアナ・カバーニ)でナチたちの前で半裸でダンスしたシャーロット・ランプリングは母として現れ、『アンチクライスト』で灰になったシャルロット・ゲンスブールは姉に生まれかわり、さらに『ニンフォマニアック』では、終に聴き手から色魔に豹変したセリグマン(アレクサンダーの父ステラン・スカルスガルド)を殺します。そして、ジャスティンは、自分を裏切らないから、誰も裏切りはしない。帷子耀との出会いのインパクトは、このデペイズマンに匹敵し、人並みに前厄の歳に撃退したはずのピロリ菌が復活するかもしれません。『メランコリア』は、パリのサンマルタン運河の傍のポテムキンというDVD専門店でゲットしてアパルトマンで観ました。あれから八年、トリアーなら『ドッグヴィル』、あるいは、ミヒャエル・ハネケの『ファニー・ゲーム』を占める幾何学的思考に対抗する現在と言えましょうか。 (宗近真一郎) |
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