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評者◆凪一木
その29 嗚呼、銭さん
No.3430 ・ 2020年01月11日




■前回、工ちゃんが言った言葉。
 「(最古透の)下の立場でも良いから、“上地さん”が現場に戻ってきて、一緒に仕事してくれるという選択肢はないのでしょうか」。そして、こうも言った。「なぜ、悪人が残って、良い人が去らねばならないのでしょうか」。
 私にとっては、「詰まらない男と面白い男」とも言えるのだ。面白い男とは、既に何度か記している。資格キングであり、その他「歴史における数字」においても特殊に世界で一人だけの記憶の持ち主でもある、銭さんである。現在、一〇四個目の「高圧ガス丙種化学責任者(液化石油ガス)」を目指して勉強中である。彼は、ある年齢まで、ビル管と並行して、事務所にも所属しながら俳優業もやっていた。ほとんどセリフもないエキストラ役である。
 柴田恭兵が主演のテレビドラマ「はぐれ刑事純情派」にも何度か出ていた。助監督のAI澤(仮名)という評判の悪い男がいた。実際、銭さんも見ていて、不愉快でしょうがなかった。ある種の人間に対してだけは、人間を人間とも思わない見下した態度を取る。それでいて、立場が上の者には見苦しいほどにペコペコする。まるで、今の現場の最古透ではないか。ただ、銭さんに聞くと、やはり最古の方がさらに見苦しいという。
 主演の柴田が現場に入ってくる。当然のごとく柴田には、最高級の態度を取るAI澤なのだが、そうではない人に対する「最低級」の態度も柴田は見ていた。何日間か、様子を見たうえで、柴田恭兵は動いた。AI澤の存在を監督に直訴し飛ばしたという。
 「あの助監督は初め、ただ仕事に厳しい男だと思って見ていた。だが違う。何日間か様子を見ていて、分かったよ。職場環境を乱すだけの男だ。良い作品を作るためのこの現場に、AI澤は必要ない」
 そういったことを柴田は語ったそうだ。
 このエピソードが何を意味しているか。それは痛いほどに分かっている。
 大手土建系列の所長よ。そして我が社(T工業)の常務よ。
 それよりも私もそうだ。なぜ、”T工業のAI澤”を追放できないのだ。良い仕事をする気はないのか。
 藤田まこと主演のテレビドラマ「はぐれ刑事純情派」シリーズにも、銭さんは出ていた。お葬式のシーンだった。眞野あずさが感動的な弔辞を読む。ほとんど無言で立っている四~五人のエキストラは、眞野と棺を向かいに、背中しか映っていない。その中の一人に銭さんもいた。銭さん以外はボーっと立っているだけだ。だが銭さんは、背中で、その弔辞に対し、心震わせている状態をどう表そうかと考えて、現場に臨む。
 僅かに体を震わせただけだった。視聴者の皆は、眞野あずさ以外、とくに画面の隅などは見ていないだろう。それでもカメラに収まる被写体の一人として、「演技」したのだという。そうしたら、監督の村川透が、「カット」のあとにやってきた。
 村川透は、松田優作の生みの親と言っても良い監督だ。Vシネマでも、加藤雅也主演の歴史に残る傑作を撮っている。銭さんは、怒られるのかと思ったらしい。
 「君ね。今の演技良かったよ。アメリカではエキストラも一流の俳優が演じているんだ。頑張れよ」
 銭さんは感動した。
 「見ている人は、必ずどこかにいて、見てくれている」
 そう思ったという。
 このエピソードから私は、銭さんの人柄とともに、村川透という監督を、今までの何倍も好きになった。そういう話をしてくれる人間が同僚にいると、楽しいのだ。試験においても、圧倒的に頼りになる。だがしかし、なのだ。とんでもないことが起きたのだ。
 現場は七人で、トップの所長以外の六人は下請けT工業で、上から副所長最古透のほか、私も含めた五人が平の設備員だ。毎日二人泊まりを三日に一回ずつ組んでいるから、一カ月三〇日で、六人の皆一〇回ずつ勤務する。所長は日勤のみで、夜勤はやらない。つまり平日の昼は三人、夜は二人、休日は昼夜とも二人という勤務体制だ。
 来月の勤務表が(現在二四日)まだ出てこない。休日希望を一七日までに締め切られ、これまでの場合は、その翌日には勤務表が出来上がっていた。新副所長になってから初めてということもあるが、一週間経過のもう二四日なのである。(誰でも開ける)パソコン内の勤務表のページを開くと、既に出来上がっている勤務表(二四日五時二〇分との最終表示)があった。誰が何日に勤務であるかが載っていた。ところがそこに銭さんの名前がない。最古と私、邦衛さん、工ちゃん、カメラマンの「全部で五人」しか載っていない。
 この勤務表を見た銭さんは、当然のごとく怒る。自分の名前がないわけだから。本来は六人の皆が一〇回の勤務なのだが、最古が一人で一五回勤務となっている。異常だ。最古が銭さんを勝手にクビになどできるはずがない。事の発端は、最古の執拗な銭さんに対する嫌がらせである。これはのちに詳述する。
 嫌がらせでの揉めごとの後、最古と銭さんとの二人の間での挨拶程度以外の会話はゼロであった。そして二四日の勤務表である。こういった行為が、果たしてパワハラなのか、私にも、この妙な渦中にいて麻痺しているためか、分からなくなっている。
 周囲の人間に対して、社内でのおかしな出来事について話すと、「そんな奇妙なことを、大の大人が何も言わずに見過ごしていたり、上司に訴えないなどと言うのは、まともじゃないでしょう」と指摘される。ハッと我に返る瞬間がある。自分自身、既に判断が狂っているのではないか。
 性暴力被害者の深刻な状況が、ここのところやっと表に出てくるようになった。『週刊朝日』二〇一九年四月一二日号には、北原みのりの記事が載っている。
 〈高校1年の時、初めてのアルバイトは近所のスーパーだった。初日、「魚の捌き方を教える」と言う店長に背後から抱きつかれ手を握られ完璧に密着した状態で魚を捌いた。お尻に硬いものがあたった。翌日から私はアルバイトをやめ、「一日しか続けられなかったね」と家族に笑われても本当のことを言えなかった。その後も長い間、誰にも言わなかった。なぜなら私は逃げなかったし、自意識過剰かもしれないし、証拠はないし、加害者を逮捕できるわけでもないし。〉
 サイコパスの術中に嵌まり、蛇に睨まれた蛙のごとき、消極的で対流のない空気と、暗く湿った湿気と、生温い風が吹いている。
(建築物管理)







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