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評者◆凪一木
その38 ビル管用語集
No.3439 ・ 2020年03月14日




■一八メートル四四センチという距離がある。普通の人間は知らないが、プロ野球選手なら知っている。ピッチャーの投げる距離六〇フィート六インチだ。
 元は五〇フィートだったが、速過ぎて打てないので、ピッチャーズライン(五五フィート六インチ)まで下げた。しかしなお速い。ピッチャーズボックスをなくしてさらに後ろに下げプレートを付けた。
 空気環境測定の位置は、ビル管法では床上七五から一五〇センチ以下だが、事務所衛生基準規則では、一二〇センチ以下。こんな数字もビル管は知っている。また「なんでも屋」と呼ばれる通り、くだらないことまで覚えている連中が多いことでも知られる。
 たとえば、「ヘリコプターのプロペラ」というけれども、あれは間違いらしい。
 どういうことかというと、飛行機のブレードプロペラや船のスクリュープロペラは、回転面と進行方向が直角で、ねじれが翼に入っているプロペラであるが、ヘリコプターは、回転面と進行方向が並行のまっすぐな翼で、ローターと言って「プロペラではない」。この話は何人かから聞かされた。
 通称「ビル管」試験が、内容的には平易であるのに、難しい試験と言われているのは、その多量で膨大な範囲の広さによる。建築・環境・衛生が中心であるが、現場では実態のない独特の隠語や専門用語も飛び交う。
 先日の所長との会話である。所長はテレビCMも打っている大手系列の正社員だ。
 「所長、うちの現場にも、カッパギを買って下さいよ」「カッパギって何ですか?」
 現場の皆が凍りついた。そんな初歩的な名前も知らないのか。
 実は私も、最初の現場で恥を掻く。メガやテスタ、クランプの使い方はもちろん、名称さえ知らなかったのだ。
 工具の名称は、知らない者にとっては、連想すらできない。ウォーターポンプ・プライヤーを「カラス」と呼んだり、「イギリス」と呼ばれるモーターレンチ。ドア金具の「フランス落とし」という言葉もある。トイレや洗面の詰まりを解消するゴム製の器具は、通常ラバー・カップというが、ラバー・スポット、ぽこぽこ、プランジャー、パッコンパッコンなど各現場でいろいろに呼ばれている。もちろんビル管で知らない者はいない。カッパギとは水を履くスクイジー(窓ふき用)、フロアドライヤー(床用)のことで、これもまた定番なのだ。これを知らない所長は、やはりヤバい奴(無知なのに権力を持っている)なのである。
 建築現場で、新入りに「ネコ(運搬用一輪車)を持ってこい」と言うと、一匹の猫を捕まえてきたというエピソードは定番だ。
 ハト小屋(屋上に設けられた配管やダクトを囲うための覆い)やキャットウォーク(点検などのため高所に設けられた細長い通路)、ウマ(高所作業のための足場)など建築用語から借用した独特の用語も飛び交っているのがビルメンテナンスの現場だ。
 病院はまた独特で、医療機器はもちろん、車椅子、機能付きベッド、オーバーテーブル、点滴スタンド、カード式のテレビ、ストレッチャー、リニアと呼ばれる検体等を運ぶ設備、RI(ラジオ・アイソトープ)設備、リネン庫、汚リネン庫、セーフティー・ボックス、座式シャワー、酸素ボンベなど要注意設備や器具が多い。ガスも、酸素、液化酸素、窒素、液化窒素、一酸化窒素(笑気ガス)、二酸化炭素(炭酸ガス)と用途別に多くが使用されている。
 二〇歳代の頃、私は百貨店のあちこちの売り場を経験してきた。今川焼を実演販売していた。札幌の御三家、三越、丸井今井、五番館のほか、そごう、東急はもとより、船橋イトーヨーカ堂、千葉三越に転勤となり、水戸伊勢甚、津田沼パルコ、春日部ロビンソンなど各地のテナントで焼いた。そこで、デパートの内部事情について多少を知ることになる。
 百貨店では、雨が降ってくると店内にいる店員は分からないので、サインとしての音楽を流す。イトーヨーカ堂では「雨に歌えば」が流れてきた。また社員同士がトイレに行ってくる時にお客さんに不快感を与えないように隠語を使う。三越の場合は、「遠方に行ってくる」という。丸井今井が「タツミ」で五番館が「マイナス」、高島屋が「すずらん」、松坂屋は「神閣」「ナカムラ」、名鉄が「ケシ」、西武は「素見屋(すけんや)」「素見所」、京成が「スケヤサン」、銀座松屋は「二の字」、大丸、小田急は「サンサン」、イトーヨーカ堂が「四番」、東急は「百番」、伊勢丹が「突き当たり」という。
 私が最初に配属されたのは「札幌そごう」だった。そこでは、トイレを「奥」と言っていた。一番つつましい感じがした。だが社員のつつましさとは裏腹に、制服は目立って綺麗だった。九二年宮沢りえ主演のドラマ「東京エレベーター・ガール」は多摩そごうがロケ地で、その美麗な制服は、そごうそのものだった。そして制服以上にド派手な外観と構造、装いが札幌そごうの魅力だった。
 シャンデリヤ付きのエレベーターや無駄なスペースが多く、二~四階は吹き抜けで「北海道の幻想」というあまり意味のないシンボルゾーンがあったが、実は屋上に最高の暇つぶし場所があった。そごう神社と呼ばれる鳥居があった。
 高校二年の時、私は、成績がクラス最下位の四五番だった。当時授業をサボって屋上に上る奴がいた。クールスを聴く四四番の男だった。四四番を含めた不良グループが屋上にいる。屋上にいる四四番以外の奴は、しっかり勉強していたからニセの不良に見えた。バスケット部で声を張り上げる嫌いな奴がいた。そいつは四三番だった。普段は屋上に行かないが、気持ちが荒むと居た。私には親友がいた。頭はいいが勉強しないので四二番だった。口癖が「お前(凪一木)と付き合っているから成績が悪くなる」。
 その日、偶然なのか屋上は四人だけだった。妙なことが頭に浮かんだ。今ここにいる四人、私と四二番以外は友達でもなんでもないよな。その日の帰り、四二番とポルノ映画を見に行った。四四番がそこに居た。
 カッパギで恥をかかされた所長は、連日、試験問題をプリントし逆襲してくる。
 高校の三年間は学校の屋上がたむろ場所であった。今川焼実演販売時代は、そごうの屋上だった。そして今は、病院やオフィスビルの屋上でしっかりとたむろし、年齢はもう還暦近い。また四五番かよ。メガ、テスター、クランプ……。今でも呟きながら。
(建築物管理)







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