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評者◆相馬巧
音への嫌悪に抗する――聴き手ないし批評家の芸術的役割とは何か
No.3475 ・ 2020年12月12日




■音楽という芸術には音への嫌悪がつきまとっている。音楽を聴いているにもかかわらず、そこでは音が聴かれていない。なぜそのような状況が生まれるのか。
 演奏会やCDの演奏への言及を見るにつけ、クラシック音楽は、実に多くの場合で作曲家や演奏者の意図を聴き取るものとみなされるていることが分かる。ある場所で鳴り響く音楽とは、創作者の魂の言語、真理の言語であることが理想とされる。だがその一方で、演奏におけるミスはこの意図への裏切りにほかならない。ここにあるのは、ある表現者から受け手への直接的コミュニケーションという幻想である。音楽演奏の場には、ある作品の「理想的な演奏」、「理想的な聴取」があればよいのであって、それ以外の要素は余分なものとされる。それゆえ一般的な聴取において、立ち現れる音の現象に注意を向けることとは、その理想像との答え合わせとイコールである。現実の演奏にあるのは意図せぬミス、未洗練な音色ばかりだ。これらの過誤が限りなくゼロにし、美しいハーモニーを重ね合わせた演奏こそが最良のものであると固く信じて、音楽愛好家たちはないものねだりをする。魂の言語、真理の言語に過誤などあってはならないためだ。このような音楽のフェティシズムに陥った愛好家たちは、音楽を愛する反面において音を嫌悪している。
 しかしだからと言って、このクラシック音楽に顕著な慣習であるフェティシズムを、ただ廃棄されるべきものとして批難することはできない。それでは西洋音楽自体を無効化しなくてはならないが、すでに現代のほぼすべての人間の聴覚は西洋音楽の体系によって支配されている。そうである以上、この無効化はほとんど不可能であり、また生産的な試みとも考えられない。むしろ、この音への嫌悪の衝動を、西洋音楽に必然的に生まれる構造の一側面として積極的にみなすことはできないだろうか。そして、この構造を批判的に把握することによって、音への嫌悪に対抗する論理を構築することはできないだろうか。私が尊敬して止まない数多くの音楽家たちは――たとえばP・コパチンスカヤ、F‐X・ロト、P‐L・エマール、近藤譲――、音への嫌悪に正面から立ち向かい抗っているように見える。この音楽家たちとともに、本連載は音楽批評として「音の方へ」と向かう。第1回目の本稿では、そのための理論的基盤を概略的に提示しておきたい。
 ヴァレリーは、1935年の講演「芸術についての考察」において、作者・作品・受け手という芸術における伝達の三者関係について興味深い提言をしている。彼によれば、先ほど述べたような作者↓作品↓受け手という直接的コミュニケーションを前提とした芸術の考察とは無意味なものである。直接的コミュニケーションが行われるためには「理想の作者」、「理想の受け手」を芸術の場に想定しなければならないが、そんなものは現実に存在し得ない。ありもしないものを想定しなくては芸術に価値を見出すことができないのならば、そのような前提自体が間違っているとヴァレリーは言う。その意味で、この前者の考え方を形而上学的モデルと呼ぶこととしよう。これに対して、芸術的な価値が真に見出されるためには、作者↓作品と作品↓受け手のあいだが絶対的に分断されていること、そして分断の媒介者が必要であると彼は述べる。このような媒介的コミュニケーションのうちでしか芸術はあり得ないという後者の考えを、ここで媒介的伝達モデルと呼ぶことにする。この後者のモデルに芸術音楽を当てはめてみるならば、作曲者↓作品Ⅰ(楽譜)と作品Ⅱ(演奏)↓聴き手のあいだの絶対的な分断、そしてこの分断の媒介者を演奏者が果たすという図式になる。このことをいかに考えようか。
 柄谷行人は、『トランスクリティーク』のなかで、このヴァレリーの言説がマルクスの『資本論』の影響のもとにあることを指摘していた(本稿のマルクスに関する記述は、ほぼすべてこの柄谷の読解に依拠する)。というのもそれは、マルクスの有名な商人資本の範式G‐W‐G+ΔGからの影響である。周知のように、この範式は貨幣(Geld)によって商品(Ware)が買われ(G‐W)、そして商品を売り貨幣を得る(W‐G)なかで、剰余価値(ΔG)が生じることを表している。ここで柄谷は、この範式における買う行為(G‐W)と売る行為(W‐G)が空間的・時間的に分離していることが、ヴァレリーの言説との関係で重要な点であると説明している。というのも、資本家は、労働力を投入することで工場において商品を生産し、その生産した商品を市場において売る。しかし、このときになぜ資本家は剰余価値を手にすることができるのか。それは、その目敏さによって、彼らが商品をより安いところで買い、買った商品をより高いところで売ることができるためだ。いわばこのとき、資本家は買う場所と売る場所のふたつの異なる体系の両方に立ち、その差異から剰余価値を手にする。剰余価値が発生することとは、この買い(G‐W)と売り(W‐G)が空間的・時間的に分離することによって説明される。
 一方で、マルクスの批判した古典派経済学において、消費者は市場経済における一定の需要の要素でしかなく、欲望が駆り立てられる受動的存在としかみなされない。つまり、需要は供給によって作り出されるとする「セイの法則」に与する古典派経済学者たちは、商品が売れるということになにも困難さを見出すことができないのだ。ここでは生産者と消費者のあいだの直接的コミュニケーションが前提とされる。
 なぜこのような相違が生まれるかと言うと、古典派経済学者とマルクスのあいだに商品形態の捉え方の大きな差異があるためだ。前者は、ある商品の価値はその商品自体に内在しているというフェティシズムに基づき商品を捉えている。この考えの基盤になったのが、生産に要した労働力の量によってその商品の価値が決まるという労働価値説である。このとき、商品が商品としてみなされる条件である商品形態は、極めて単純なものに過ぎない。それに対して、マルクスは、ある物品に価値が付与されて商品に成ることとは、上の商人資本の範式にあるような貨幣の流通過程(G‐G)においてのみあり得ると考えた。そのため、商品は決して自らの内部に、ある一定の価値を内包してはおらず、むしろ流通する貨幣、つまり資本によってそのあり様を絶えず規定されることになる。ここで商品形態は、極めて奇妙なものとみなされることになる。なぜなら商品形態とは不変の性質ではないからだ。
 ここで古典派経済学者たちは間違った説明をしているのではない。しかし、資本主義経済の謎をなにも説明していない点においてマルクスよりも遥かに劣っている。彼らは商品のフェティシズムにとらわれ、生産者と消費者による商品の直接的な需要と供給の場を前提として経済を考える。ここにおいて貨幣の循環は、商品経済を説明する二次的なもの、さらには理念的には排除され得るものとみなされる。柄谷は、ここに「貨幣への嫌悪」が生まれると説明する。そのような古典派経済学者と異なりマルクスは、貨幣は商品形態の二次的なものではないと言う。それは、貨幣の流通過程によって初めて商品は商品として条件づけられるという重要な指摘にほかならない。
 ここでヴァレリーの議論に戻ることとしよう。彼が提起した前者の形而上学的モデルが芸術作品(商品)のフェティシズムにとらわれた考えであることはすでに明らかである(アドルノは、自らの音楽論のなかで繰り返し「芸術作品の商品的性格」について言及しているが、その背景にあるのはヴァレリーと同様、マルクスの商人資本の範式であろう)。この考えに基づいて、ある作品に芸術的価値を認めることは、作品の内部に、ある一定の価値が内包されているとみなすことによってしか説明され得ない。たとえば、とある演奏が偉大なものと評価される理由はその演奏者が偉大であるためだといった倒錯がここで生じる。そして、作者(作曲家、演奏家)から受け手(聴き手)への直接的コミュニケーションが理想とされることで、「音」がこの場から排除される。いわば、「音への嫌悪」が生まれるのだ。
 しかし、ヴァレリーが挙げた後者の媒介的伝達モデルに基づくならば、芸術的な価値とは、マルクスの言うところの剰余価値(ΔG)にほかならなくなる。そしてまた音とは――貨幣と同様に――、作品の二次的なものではなく、作品を作品たらしめる条件となるのだ。この媒介的伝達モデルを音の交換過程とみなすことによって、次のように範式を立てることができるだろう。

作曲家が聴いた音↓作品Ⅰ(楽譜)/作品Ⅱ(演奏)↓聴き手が聴く音+芸術的価値

 芸術作品はこのなかで条件づけられる。「作曲家が聴いた音」は、空間的・時間的な絶対的な分離のために決して到達し得ない理念として設定される。その意味において、この範式は決して相対主義を唱えるものではない。また「聴き手が聴く音」については、演奏者もまた自らが発した音を聴く立場にあるという意味において、彼ら/彼女らもまた聴き手のひとりであることに注意されたい。演奏者はこの範式のなかで作曲家と聴き手の分断の媒介者であると同時に、聴き手でもある。
 このように演奏とは、決して明らかにされることのない「作曲家が聴いた音」を楽譜を読解することを通して想像し、それを基に音楽の現象を生み出す媒介的行為と言える。そしてここで発せられた音楽が「音」の次元において聴き取られるならば、すなわち、形而上学的モデルに与せずに「聴き手が聴く音」に基づき聴取がなされるならば、作品は、演奏され聴き取られる度ごとに変化することになる。顔の見えない作曲家と顔の見える聴き手との音の交換過程において、作品は絶えず変化し続ける。音楽作品に固有の内容はあり得ず、それは事後的に与えられるのみなのだ。
 では、芸術的価値(ΔG)はいかにして生まれるというのか。ここでの重要なモティーフがマルクスの言う「命がけの跳躍」である。というのも、彼の商人資本の範式G‐W‐G+ΔGにおいて、商品が売れる(W‐G)ことは決して自明なことではない。労働によっていかに商品が生産されようとも、売れなければ貨幣の流通は生まれない。そのため剰余価値(ΔG)が獲得されるためには、資本の「命がけの跳躍」が必要になるとマルクスは指摘している。もしこの跳躍の失敗が連続したときには、経済恐慌が発生する。では芸術音楽においてこの跳躍が失敗したときにはいかなる事態が生じるのか。そのときに音は、アドルノが言うところの「投壜通信」となる。『新音楽の哲学』にある有名な言葉であるが、これはシェーンベルクら新ウィーン楽派による新音楽が、そのあまりの不協和音の連続によって、誰からも聴かれなくなった状況を指す言葉である。そうであるならば、聴き手ないし批評家の芸術的役割がここで明らかとなる。それはつまり、「投壜通信」ともなり得てしまう「音」をあるがままに受け取ること、そしてそれを哲学的に解釈・批評することによって命がけの跳躍を果たし、芸術的価値を見出すことである。
 またこのときには、楽譜の役割にも大きな変化がもたらされる。形而上学的モデルに即して考えるならば、楽譜とは、ある一定不変な理念である作曲者の意図に近づくためのものであった。言い換えるならば、そこにはひとつの理想的な読解なるものが設定され、演奏家はここにいかに近づけるかを競い合うことになる。ところが媒介的伝達モデルであれば、音の交換過程における楽譜自体の変化が見出される。それは決して改訂などの問題ではなく、楽譜がいかに読まれるかという問題にほかならない。そもそも楽譜とは、音符という払拭し得ない不確実性を帯びた記述様式のうえに成り立つ。そこに形而上学的モデルのように、理想的な一通りの読みなどを設定すること自体が、そもそも倒錯にほかならないのだ。それに対する媒介的伝達モデルにおいて、楽譜は――マルクスが貨幣の流通過程によって規定される商品形態を「社会的な象形文字」と形容したことになぞらえて――、文字通りの象形文字として読解される。つまり、商品が貨幣の流通過程によって規定されることと同様に、音符という文字もまた、音の交換過程による規定のもとで読解される。一通りの読みを拒絶する象形文字として楽譜は読解されるのだ。
 そして演奏者たちには、ある種の「逐語性」(ベンヤミン)に基づき、この象形文字である楽譜(作品Ⅰ)をそのままに演奏(作品Ⅱ)へと移し替えることが使命として課せられる。音楽作品は、楽譜と演奏という分断されたふたつの側面を持つためだ。こうして、演奏もまた音の交換過程によって規定され、象形文字となる。しかし、ある場所において演奏された音楽が、「投壜通信」として忘れ去られるのか、それとも「象形文字」として読解され命がけの跳躍を果たすのかは、聴き手ないし批評家にかかっているいる。
 以上のことから、芸術的価値(ΔG)とは、演奏家と聴き手の共同作業によって初めて生み出されることが明らかとなった。これに比べると、形而上学的モデルに基づく芸術の価値判断とは、慣習によって予め決定された判断基準によって演奏を測ることに過ぎない。なおかつ、ここには「音への嫌悪」の衝動が働くので、ここに立ち現れた音は「投壜通信」として消え去ってしまう。そうであるならば、現在のようにクラシック音楽を聴く人口の減少、そして音楽業界自体の衰退が歎かれるなかで、この媒介的伝達モデルに即した演奏、聴取、そして批評を実践することは喫緊の課題ではないか。
 なによりもここで確認しておくべき重要なことは、媒介的伝達モデルに即した演奏様式が決して机上の空論ではないということである。この演奏様式は、すでに世界中で実践されている。冒頭にて挙げた音楽家たちを、私はこの演奏様式の現在における最高の急先鋒と捉えている。ここには、1990年代以降に活躍する古楽演奏家たちも考慮に入れなくてはならないだろう。楽譜を象形文字として読み解き、象形文字のままに演奏し、そして聴き手でもあること。音への嫌悪に抗して音楽を営む者たちを私は心より尊敬している。
(東京大学大学院博士課程)







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