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評者◆凪一木
その76 宇宙の爽快・第二の怪
No.3477 ・ 2021年01月01日




■生きてきた中で、これほどの安堵に包まれたことはあるだろうか。この世の春、我が世の春にどっぷりと浸かる。そんな瞬間を初めて感じた。時を止めて持続するような感覚を覚えてしまった。
 栄光を掴んだわけではない。だが、沢田研二が七七年に『勝手にしやがれ』で、日本レコード大賞を獲った時の彼よりも、オグリキャップが、二度目の有馬記念を制した時よりも、原田雅彦が、大雪で中断ののち大ジャンプを飛んだ時よりも、私にとっては、比較のしようはないけれども、彼らに匹敵した、いやそれ以上の出来事ではなかったか。決して大げさに言っているわけではない。
 何のことかというと、これまで書いてきた如くに、サイコパスをある程度封じ込めたのだ。最古透が現場から消えた。会社自体にもはや来なくなった。上司を脅して、退職届を出したにもかかわらず他の現場を探せと急かしてもいるようだ。だが、既に五現場を追われている。本社では悪名が轟いていて受け入れられない。また、いなくなってからも得意の遠隔操作をしようとして、現場の同僚フェラーリに深夜、電話をしてきて、巧みな言語操作を仕掛けてきていた。だが、私が口を酸っぱくして、最古透の危険を訴えてきた成果もあってか、フェラーリ他マーシーも樵も、代わりの副所長も奴の操作、甘言、コントロール、だましのテクニックに乗ることはなかった。チームによる撃退と言ってよいであろう。
 これまでの人生でも、数々の嬉しいことがあったが、何と比べても、歓喜に包まれているのではないか、と言っても言い過ぎではないぐらいに、「有り得ない」ことが起きたわけで、逆に、この先、何事もないように、気を付けたい。
 サイコパスのいる世界といない世界の違いをここで書いてみる。一つは、ミスを見つけチクり合い、傷付けあう現場である。江戸時代の五人組のように監視をしあって、報告する。しかもサイコパスという実体のない、一番実力も資格もない人間に対しての報告である。これがいなくなった後は、ミスをかばい合う、そしてなるべく傷付け合わないような、問い質し合うような仕組みを減らしていった。
 くんずほぐれつの日々があったが、そのことで今、平和を「噛み締めている」次第だ。このことで、「幸せな人間は文章を書かない」という、不幸こそが、表現(芸能活動)のかなりの実態だと思うところもあり、これが今、私の場合、実現してしまった。何も書く気持ちになれない。困ったことというか、嬉しい悲鳴というか、悲しい笑顔というか、大きな声では言えないが、小さな声では聞こえない。今、そんな状態だ。つまりは、幸せな人間は、字を書かない。これで物書きを卒業できるのか。そう思った矢先である。好事魔多しなのだ。例の小石先生である。
 小石先生は、西武池袋線の富士見台駅周辺に住んでいる。周辺というのは、ときどきアパートを移るからだ。と言っても似たような、風呂無しトイレ共同という家賃三万円程度の安普請アパートだ。隣の住人がヤクザや問題有りの人たちで、そのたびに自らが移る。揉め事は嫌いだが、安アパートゆえに、問題有りの隣人の確率は高く、毎度ロシアンルーレットを行って生きているようだ。警備の現場もご多分に漏れず、彼の場合は、何度も現場を異動させられ、今回もまた、その一件の二カ月後に異動となった。
 富士見台駅周辺には、これまで三軒の公共のお風呂屋さんがあった。その銭湯は全部潰れてしまった。したがって電車移動でお風呂に入りに行く。四駅先の江古田や、電車を乗り換えてまで別の風呂屋にも行く。二駅先の練馬から大江戸線に乗り換えて。そこから二駅目の東中野のお風呂屋さんには二五メートルのプールがあって泳げるそうだ。五駅先のひばりヶ丘駅前のお風呂屋さんは、夏になると池に金魚がいて、藻に花が咲くという。小石先生は、ほかのどの隊員にもない風流さを持ってはいるのだが、いかんせん、仕事ができない。事件が起きたのは、二駅先の上石神井公園のお風呂屋さんだ。お湯が滑らかなのもあって、最も頻繁に通っている。
 一〇年間通った風呂屋であった。いつものように一五時三〇分に、入りに行った。番台には顔見知りの八〇歳過ぎのお婆さんがいる。携帯電話と財布を預けた。
 携帯電話は持たない主義であったが、会社(一応は大手の警備会社)からうるさく言われ、というより、私の目にした光景から言うと、ただ単に隊長から執拗に追い込まれ、脅迫まがいの追い詰められ方の結果、買う羽目に陥ったという印象だ。「絶対に必要だ。何かあった時に、どうするんだ」。
 そう問い詰めていたけれども、実際には、早稲田の大学院卒の元翻訳の男も携帯電話を持っていないが、このインテリには一切そういったことは言わず、未だに持っていないままである。また、何かあった時と言うが、小石の場合は、台風で電車が動かない、などの予報が出ると現場近くのビジネスホテルを取って、そこに泊まる。実際、何度も彼だけが遅刻せずにやってきた場面を見た。
 立場が変わったり、場所、雰囲気、局面が変わったりしただけで、これほどまでに人は豹変するものなのか、という人物は見るが、この隊長ほどに、変貌した人間も珍しい。隊長の変貌ぶりを見るにつけ、人間というのは恐ろしいなあと感じてはいた。その最大ターゲットが、なぜか小石先生であったのだ。
 他にもいくらでもいるのだ。元自衛隊の臭すぎる匂いマン、元国鉄の異常すぎるしゃべりデブ、元何物かは知らないが、とにもかくにも何もせずに胡麻化してやり過ごすだけの適当男。怒鳴るだけの元テーラー。
 さて、小石先生。長風呂なのか、一時間後の一六時三〇分に番台を通る。預けた財布と携帯をもらいに行く。「えっ。さっき、知り合いの人に渡したよ」。
 狙われていたのである。二万円と少し入っていた。カード類はない。問題は携帯電話であろう。普通の人なら情報がたくさん入っている。だけど、小石先生は、携帯を使わない。一人だけ連絡先が登録されていた。警察による現場検証が一九時三〇分まで三時間も行われた。二万円はお風呂屋が弁償し、中身の抜かれた財布と携帯は拾われて戻ってきた。犯人は逮捕されていない。
 「大丈夫よ。登録してあったのは凪さんだけだから」
 どういうことだ。それこそヤバいではないか。第二の怪であった。(建築物管理)







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