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評者◆凪一木
その80 ボストンの白い歯
No.3481 ・ 2021年01月30日




■サイコパス男の代わりにやってきた通称ボストンと私が呼ぶ副所長は、現場を滅茶苦茶にして二カ月で、他現場へ飛ばされた。他現場と言っても、実際に他の現場ではなく本社の技術部勤務という部署で、常駐ではなく巡回である。この勤務の良いところは、早く終わると午前中であっても、そのまま家に帰ることが出来る。実際、かなりの頻度で、定時前に終わることの方が多い。給料泥棒と言われる部署でもある。月一万円までは、どんな領収書でも目を瞑って出してくれるという。現場では、三〇分の残業を「強いられて」やってさえ、それを請求するのに小言を言われる。
 現場勤務の者で、たとえば私でもよいのだが、アルバイトする者もいる。休みの日に、この巡回応援に行くのだ。このとき運が良ければ、やはり午前中で帰れる。日当は一万円である。私は一回も行ったことがない。お金よりも時間が欲しい。
 ところで、歯の話だ。たまたま私の歯が抜けた。実際の歯ではなく義歯である。既に三日前に別の歯を治療し終えたばかりであったのに、今度はこっちかよ。しかし、いつの頃からか、まるで歯がボロボロと悪化していく状態がここ三〇年ぐらい続いているわけで、総入れ歯に向かって歯医者さんの懐を膨らませるのに大貢献している。とはいえ、インプラントなどのお金持ちのやる治療は一切していないから、それほど太い客(患者)でもないことは確かだ。それでも、いやそれだからか、我が歯の通院について、一〇年ぐらい前から、考えるたびに泣けてくるのだ。
 「あっ。小林製薬」というフレーズのコマーシャルがある。あれは一体、何の意味があるのか分からないが、正に、いつも歯が抜けるときのそれは「あっ」というものなのだ。「あっ。一万円」である。今回抜けた歯の治療は、こうだ。
 歯医者に行く。「これはもう使えませんね。根の収まる顎の方の骨が残っているので、また歯を入れることが出来ます、良かったですね」。何が良いのか分からない。その日は土台の型を取り一五〇〇円。次は、土台が入り、上下の型を取り二六〇〇円。「次回は、歯が入るので五〇〇〇円ぐらい掛かります」。結局一万円ではないか。実は他に前歯が欠けている。一年前にすっぽりと折れたことがあり、おそらく近いうちにそうなるのではないか。会社と歯科医と家の往来運動だけで人生が終わりそうだ。病院通院もあった。
 ところで、人間、それぞれいいところがある。そのボストンだ。ロクでもないことばかりをやるくせに、歯は悪くないのだ。「ここ一〇年ぐらいは歯医者に行っていないよ」という。虫歯だらけの私からすると信じられない。一応は定期健診的に行ってみてはどうかと、提案した。その一週間後である。
 「一〇年ぶりに歯医者に行ってきたよ。まったく虫歯がなかった。これで、あと一〇年ぐらい行かないで済むかなあ」。ロクでもない奴でも、人間一つぐらいは良いところがあるというか、私にとっては何も良い話ではないのだが、羨ましくもあり、日頃の行いと歯は無関係なのかとも思える事例である。自分の歯だけで暗い気持ちが、ボストンの報告で、ますます暗澹たる気分に陥った。早く、この現場から出ていけよ。白い歯で笑顔を見せるボストン。
 どこか不公平だ。ビルも、常に水漏れや漏電を繰り返しているメンテナンスの多い現場がある。不具合が次から次と起きる。私の身体のようだ。遺伝もあるだろう。ビルもまた立地の悪さや、手抜き工事や、躯体や設備の外れもある。
 この一〇年の私でいうと、消化器内科や循環器科を別とすると、歯科医だけでも一年に三〇回程度通院し、一回二〇〇〇円平均で、大体一時間かかり、一〇年間合計で、少なくともお金と時間で、六〇万円と三〇〇時間を費やしている。逆にボストンはこれだけのお金と時間を私よりも持っているわけだ。こういうことを、ボストン相手だけではなく、いろいろな恵まれた人間と比較してみることがある。だが、考えてみると、もっと病気で、もっと不運で、もっと恵まれていない人間はたくさんいて、少々のハンディはあったほうが良い。バチが当たる。
 辛いことを経験しているからこそ良い歌が作れるとか、背負っているものが大きい者にこそ、相談しやすいとか、スターが感動を与える絡繰りは、その不幸にあるわけであり、そう考えると、まんざらでもないのだ。逆境に強い。つまらないことで死なない。だが、それは本当なのか。耐えられない歯の痛みと少々のお金であっても死ぬかもしれない。
 年に八〇〇本も映画を観ていた時代がある。六〇万円と三〇〇時間を無駄に過ごしている私が、その無駄ゆえに、もっと無駄と世間から思われている映画館での時間によって、傑作の発見に至る。ボストンは、ボストンを聴き続けてはいても、私がいくら勧めても、その傑作を観には行かないだろう。とはいえ、多くの人が観ないだろうことは分かっていても、観てほしいと思い、一応勧めはする。
 いつも同じなのだが、歯医者の、居心地の良くない椅子に腰を下ろして、今日は一本映画を観損ねた。無駄だなあ、と思いながら口を開ける。一本観たからといって、人生が変わる場合もあれば、歯医者の時間以上に無駄だと思う場合もある。
 では、仕方なくのように、ビル管に費やしている労働時間はどうなのか。映画を何本観逃しているのか。本を何冊書き損じているのか。作品の数が人生ではないけれど、履歴はそこにありと一時思う自分はいた。
 たこ焼き屋でバイトをしているときに、二〇年前に勤めていたダビング工場の同僚が、店頭に現れた。当時は独身だったが、子供を二人連れていた。ヤバいと思って、咄嗟に私は、店の奥に隠れた。店長の声がする。
 「凪さん、どうしたの。接客してよ」
 バツが悪かった。相手も「こんな場所」と言わんばかりの鈍い笑顔だ。「ここで仕事をしているんだア……頑張って」
 今、同僚のフェラーリは、ビルの外の点検時には、身を潜めている。誰に会うか分からないからだ。ビル管を生きている奴らの多くが、隠れ蓑や、成れの果てであることは間違いない。元広告屋のボストンはしかし、何を恥じることもなく巡回点検をしている。警察周りだ。
 少しも眩しくない白い歯を見せながら。(建築物管理)







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