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評者◆相馬巧
音のパラタクシス――バッハ・コレギウム・ジャパンの第九(2)
No.3483 ・ 2021年02月13日




■バッハ・コレギウム・ジャパン(以下、BCJ)によるベートーヴェンの9番交響曲の演奏は――アドルノの楽曲分析に合致するように――、拡張と集約という相反するふたつの運動を絶えず交互に繰り返す。曖昧なままに放置されたポリフォニックな掛け合いは突如として振り切られ、猛々しい客観性の暴力を孕みながら統合へと向かう。すると、やがてポリフォニーが回帰し、その統合が解かれていく。ふたつの運動のあいだの緊張が途切れることはなく、演奏全体がそれに満たされている。この作品に内包されるふたつの運動は、ただ共存するものではなく、互いに干渉し合う弁証法の過程と捉えられるだろう。これが演奏に謎めいた緊張感を生み出している。すなわち、あらゆる音が、いまここで生まれたかのように慣習を拒絶して鳴らされるのだ。しかしながら、なぜこの弁証法の過程が、演奏に謎めいた緊張感を生むなどと言うことができるのか。この構造が明らかにされなければ、BCJの演奏についてなにかを語ったことにはならないだろう。
 まずもってこのような緊張感は、指揮の鈴木雅明の演奏に一貫して見られる特徴であった。彼の弾くチェンバロがそれを如実に物語っているように、作品からポリフォニーの構造を掬い取り、それを単旋律の主題に衝突させる。その意味で、BCJの9番交響曲の決定的な名演とは決して偶然に生まれたものではなく、鈴木の音楽的特徴と作品の特性が結びついて生まれた必然と言わなくてはならない。ベートーヴェンの晩年様式について語るアドルノの言葉を引用しよう。

彼〔ベートーヴェン〕の晩年様式も〔弁証法的な〕過程であることに変わりはない。ただし、発展としてではなく、確固とした中心や自発的な調和を許さぬ両極端なもののあいだでの起爆としての過程である。厳密に言うならばこの両極端なものとは、一方に単旋律、ユニゾン、決まり切った節使いがあり、他方でそこに突如としてそそり立つポリフォニーがある。(「ベートーヴェンの晩年様式」、『楽興の時』所収)

 9番交響曲もまた、確固とした統合に向かう「発展」としてではなく、そのような統合を拒絶する「起爆」としての弁証法的な過程を辿る。「起爆」とは、この過程にある作品の分裂した様子を表す比喩であろう。アドルノはこの引用と同じ論考のなかで、晩年の作品が「一般に円熟しているというより、切り刻まれ、引き裂かれてさえいる」と述べていた。しかしながら、この弁証法がもたらす分裂とは、ケージ作品のように完全な無秩序なまま音が発せられる状態を表すわけではない。晩年様式の作品もまた別の秩序を現に有している。そのため、この分裂の過程とはむしろ、ヘーゲル型の弁証法がもたらす統合とは異なった統合の原理が作り出される過程であると言わなくてはならない。その意味で、晩年様式とは、いまはまだ存在しない音楽語法を生み出す不断の営為であるのだ。BCJの演奏に見られる、慣習を拒絶して鳴らされる音の集積という現象は、このことに起因しているのではないか。
 しかしながら、晩年様式の音楽語法について、アドルノはベートーヴェン論のなかで十分な理論を提供してはいない。だが、そのほかの論考を見ていると、彼がこのことを数多く論述の重要な箇所で参照していたことが分かる。晩年様式のモティーフは彼の思考のひとつの源泉であったのだろう。それならば、ベートーヴェン論以外の彼の論考から、この問題を考えることができるのではないか。今回は、そのなかでも重要な論考として、アドルノがドイツの詩人フリードリヒ・ヘルダーリンを論じた「パラタクシス――ヘルダーリン後期の抒情詩に寄せて」に注目したい。
 アドルノの論じる晩年様式の音楽語法と後期ヘルダーリンの讃歌の文体には、ある類縁性が存在する。両者のうちには、慣習に対する批判の意識、そしてより表現に適った形式を作り出そうとした痕跡が見て取れるだろう。そのヘルダーリンの後期讃歌にて用いられる文体がギリシア語で「パラタクシスParataxis」と呼ばれる。詩における文や単語の並列(関係)を意味する。その対概念「ヒュポタクシスHypotaxis」は、文や単語を統語論の従属関係に置く文体を指す。

ギリシア語で鍛え上げられたヘルダーリンの言語操作は、大胆に形づくられた従属的hypotaktischな構成を断念していない一方で、技巧に満ちた中断としての並列Parataxeが顕著であり、従属的な統語論の論理的な階層秩序を回避する。(……)さまざまな要素が互いに判断におけるのとは異なったかたちで結びつくように、言葉を並びかえることは音楽的である。(「パラタクシス」、『アドルノ文学ノート2』所収)

 たとえばキリストについて語る「唯一者」という詩での、「だが彼の怒りが燃え上がる、すなわち、/しるしが大地に触れる、次第に、/梯子のところで、消えてしまったあの怒りが。/今度こそ」といった一節のように、彼の詩では、文の要素が主語述語のような従属関係を取らない。詩の進行は改行のたびに中断され、または文が倒置されることで、それぞれの単語が並列されていく。
 このような奇異な文体を指して、アドルノは「音楽的」であると言う。というのも、一般に人間の思考や判断は――子供が見知らぬ物を前にしてその名前を尋ねるように――、目の前にある対象を概念に包摂することを求める。ヘルダーリンにとってヒュポタクシスの文体とは、描写する対象を言語の従属関係に置くこと、さらには言語の階層秩序に合わせて対象を矮小化することにほかならなかった。そのため彼は、言葉を並列させるパラタクシスのリズムによって、この概念による統合の作用を和らげようとするのだ。

〔ヘルダーリンの詩において、〕ヘーゲルを想起させる通俗的なタイプの媒介、諸契機を結びつける外からの媒介は、ベートーヴェンの晩年様式でしばしばそうされていたように、外部的で非本質的なものとして除去される。(同上)

 人間は世界を概念に即したかたちで知覚するのであって、ありのままに知覚することはできない。しかしながら、ヘルダーリンとベートーヴェンはこれに反抗する。詩を書くこと、作曲をすることとは、そうした既成の体系のもとでしか果たされ得ないのか。引用にあるヘーゲル型の媒介とは、いわば外的に付与された言語・音楽語法の体系的な統合作用であり、それを彼らは拒絶するのだ。そうして、詩や音楽から生まれる断片の潜勢力へと目を向けさせる。

詩とその言葉で明確に表現されているもの以外の実際的な内容を合理的に確認するだけではなく、不意に出てくるウルリヒという名前の衝撃をなおつねに感じ取れる人間、そのような人間が詩を理解するであろう。(同上)

 「ウルリヒ」とは、ヘルダーリンの詩「ハールトの狭間」に突如として現れる名前で、その正体が作中で明かされることはない。そこで20世紀の文献学者F・バイスナーは、この名前が16世紀のドイツに生きたヴュルテンブルク公のものであったことを明らかにした。いわば、文献学はこの注釈を付けることによって合理的に詩の内容を確認しようとする。しかし、アドルノはそれでは詩の解釈としては不十分であると言う。いかに文献学が「ウルリヒ」という名前の所在を明らかにしようとも、依然としてヘルダーリンの詩には、表現としての「困惑した性格」(同上)が残される。アドルノの芸術哲学においては、困惑とともにこうした断片をいかなる布置のもとに配置し、認識を得るかが重要な問題となる。それと同様、9番交響曲にある断片として並列された音の集積をわれわれはいかに認識しよう。
 次回では、このヘルダーリン解釈を「音のパラタクシス」という音楽語法へと展開する。そうしてBCJの演奏との具体的な接続を試みたい。
(東京大学大学院博士課程)







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