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評者◆稲賀繁美
愚行の撲滅を目指すことに勝る愚行はない――零落の哄笑か哄笑の零落(下)――四方田犬彦著『愚行の賦』(講談社)へのマルジナリア
No.3487 ・ 2021年03月13日




■(承前)『愚行の賦』には、フローベール、ドストエフスキー、ニーチェさらにはロラン・バルトといった文人たちが登場し、末尾には谷崎潤一郎の「愚行」が俎上にのぼる。「愚」に「徳目」を見る著者だが、その「見識」は著者や読者を「愚行」へと誘うのか、そこから解き放つのか。本書に浮上しつつある「健全さ」を不健全に転倒し、評者の「暗愚」を晒したい。
 人は時として思い設けぬ「愚行」の標的に選ばれる。「危険な思想家」と指弾された竹山道雄は「一日モ早ク死ンデクレ」との暴言ある来信に、新聞随筆欄執筆のための絶好のネタを見出し、偽名の差出人に謝意を表した。この「怜悧さによる報復」(219)もニーチェ『この人を見よ』由来の、意図的な「愚行」だったのだろうか(『竹山道雄と昭和の時代』:371)? 
 「愚行と戯れる」大愚の哄笑は、愚行からの自由なのか? 「往古の世界文学全集」遍歴の末、この問いに直面した著者は「問題の巨大さに眩暈」(315‐9)を催す。だが「眩暈」etourdi(300)こそ、芭蕉の「稲妻に悟らぬ人の尊さよ」に感銘したRoland Barthesが「法」の「綻び目」に見た「愉悦」だったはず(314)。驚愕stupefactionとは、予期せぬ突発事態に「魂消」て、「愚鈍」stupideな状態に陥ることの謂(355)。それは神仏の到来に不意に襲われるepilepsia「神聖なる病」morbussacer(181)。だが、「愚人」は「稲妻」にも「悟」らない。
 そして著者は、既に先行する著作『親鸞への接近』で「愚禿」(320)の「愚人の心」に触れていた。――「悟り」は他力により不意に到来し、光明に囚われた「狂人のみが真理を口にする」(340)。だがその発作は、定義からして常人には理解され得ず、信仰共同体も、組織防衛のために、開示された真実を封印し、「愚昧」へ逃避する(拙連載第188‐9回)。
 本書最終章で著者は「愚かと云ふ貴い徳」(348)を谷崎潤一郎に見出す。その『少将滋幹の母』(362)の描く「色好み」平中が糞に塗れる愚行は、紫式部も源氏物語「末摘花」にちゃっかりと援用していた。それを敷衍した谷崎作品をベケット『初恋』と並べて論ずる快挙は、いかなる「比較文学者」も想定しなかった「荒唐無稽」だと著者は北叟笑む(369)。
 その糞尿譚の「法悦」に、評者は「蚤虱 馬の尿[バリ]する枕もと」を想起した。ニーチェはトリノで、虐待される馬を目撃して狂気に陥った。だが件の馬は人尿に塗れて快楽に浸り、芭蕉は奥羽で馬尿を嬉々?として浴び、谷崎は糞尿に塗れる愉悦へと倒錯した。そこには藝術という「純粋なる愚」(221)を肯定する「高潔なる狂気」(227)が顕現する。「歯が二度と痛まないように歯を抜き取る」愚は『善悪の彼岸』へと突き抜ける(223)。ニーチェとバルトは芭蕉の俳諧の下、老子の「大愚」と踵を接する。本書はこの「眩暈」の錯綜に踏み込んだ。 『摩滅の賦』(2003)を踏まえた著者が、『親鸞への接近』、『無明 内田吐夢』を経て、予告される『零落の賦』へと沈淪を遂げるには、本書の聡明なる「愚行」を回避することは許されなかった。『愚行の賦』は、その文業/行における「迷陽」(339)の布石となるのだろうか。
(了)







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