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評者◆関大聡
リベラリズムの秘かな愉しみ――ミシェル・ウエルベックと新反動主義(後編)
No.3492 ・ 2021年04月17日




■前々回の連載(三四八四号)では「新反動主義」をめぐるフランスの議論を紹介し、ミシェル・ウエルベックの『発言2020』には、しばしば新反動主義者と評される作家の隠れた本音が読めるのではないかと書いた。小説と違いエッセイには「登場人物の背後に隠れた作家の首根っこを掴むことが期待できるのではないだろうか」と。
 前言を翻すようで恐縮だが、ここではそのような期待を慎むつもりだ。自己演出と挑発を得意とするウエルベックが、エッセイでは胸襟を開いて「本音」を語っていると考えるのは、小説を告白と考えるのと同種の過ちではないか。文学社会学者のジェローム・メゾも言うように、ウエルベックを始めとする現代作家たちにとって、作家の公的なイメージはいまや作品の一部になっている。作家が登場人物の言動を模倣することさえ珍しくない。であれば、エッセイにも演出、作為を見るのは当然のことだと言えよう。
 しかし、「ウエルベックにおいてはすべてがパフォーマンスだ」と主張することは、彼の著作への政治的批判のすべてを無効化することにはならないし、実際そのような批判の試みは近年増加するウエルベック批評の主要なテーマでもある。重要なのは、作品とそれに対する作者の権威ある注釈という二分法を取らず、エッセイやインタビューもウエルベックの作品と考え、その論理、そしてその成否を判断することにあるだろう。
 とはいえ、本稿の限られた紙幅でそこまで考察を進めることは望めない。そこで本格的な論考は他日を期することにし、ここでは新反動主義についてウエルベックが何を述べたかを手がかりに、わずかに議論を展開させてみようと思う。

 ここで取り上げるのは、二〇〇三年、伝統的な保守系日刊紙「フィガロ」に掲載された二本のエッセイ、「二〇〇二年のフィリップ・ミュレ」と「進歩の源泉としての保守主義」だ。いずれも、『秩序への回帰』の著者ダニエル・リンデンベルグが、彼を新反動の中心人物として指弾したことに触発されている。先に二本目から見てみよう。ウエルベックはまず批判に対し、「新反動主義者」がいるなら「新進歩主義者」もいるはずだとやり返す。そして彼らの特徴は、進歩をその内容から吟味せず、それが新しいという理由だけで受け入れる点にあると言う。これに対して新反動主義者は新しいものを原則的に拒絶する。だが実際には、十分な検討を経れば新しいものを受け入れもするのだ。そのような彼らは、むしろ「保守主義者」と呼ばれるに相応しい、云々。
 哲学者ベルナール=アンリ・レヴィとの往復書簡『社会の敵』(二〇〇八)での説明は微妙に異なる。ウエルベックはこう書く。「反動」の語が、過去の方が現在より望ましく、そこに立ち返るべきだと考え・行動する傾向を指すのであれば、自分ほどその名に相応しくない人間もいない。なぜなら、自分の小説に一貫した思想というものがあるとすれば、それは「ひとたび始まった破損のプロセスは絶対に取返しがつかない」というものだからだ。他方、このようなペシミズムを抱く自分は、当然のように保守主義者ではあるだろう。
 二つの説明から見えてくるのは、保守主義と新反動主義を名称として区別した上で、新反動主義は過去への回帰願望だとして拒否し、むしろ保守主義の称号を要求するという姿勢だ。なぜなら保守主義とは、進歩に生来の留保を示すが、必要とあればそれを受け入れる、慎重と吟味の精神だからだ。逆説でなく、保守主義こそ進歩の真の源泉なのだ、とウエルベックは主張する。
 このような保守礼讃には、やはりパフォーマンスとして、掲載誌である「フィガロ」へのおもねりが認められる。もうひとつのエッセイ「二〇〇二年のフィリップ・ミュレ」(初出時タイトルは「左翼の人間は道を外れた」)では、このおもねりが殆ど慇懃無礼な嘲弄にまで発展する。「愛すべき古典的反動主義者であり、古くからの家の高貴な守護者」であるフィガロの読者よ、諸君らは私たち新反動主義者と呼ばれた者たちの「スポンサー」である。したがって支援をお願いしたい! この逆撫でするような皮肉には、左派だけでなく右派にも迎合しない、ウエルベック独特のスタンスが窺われるだろう。

 では、ウエルベックを新反動主義者ではなく保守主義者と呼べば、疑問はすべて解決するのだろうか。上で披瀝された彼の考え自体は興味深いものの、反動と保守の区別は恣意的の感が否めない。そこで呼称の問題は一旦措き、次の問いを考えてみよう。
 実際、作品の登場人物がしばしば口にし、作者も時に追認する、人種的偏見、イスラム教への批判、反フェミニズムなどをどう考えればよいのだろうか。また他方でウエルベックの文章には独特の叙情(リリシズム)、愛や相互信頼への希求も垣間見え、二つの傾向は奇妙な仕方で共存しているのだが、私たちはその共存をどう受け止めればよいのか。ウエルベック研究者のブリュノ・ヴィアールが言うように、「意地悪なウエルベック」と「優しいウエルベック」がいるとするなら、人はしばしば後者の価値を強調し、その擁護に努めてきた。では前者はどうか。ヴィアールがそう考えがちなように、それは愛や承認に飢えた子供の逆上のようなもので、結局は愛情表現の裏返しなのだと理解すれば、救われるだろうか。
 ウエルベックをそうやって「理解する」ことは、おそらくそんなに難しくない。自分と異なる立場の言説に理解を示すのは、リベラルな社会では最低限のルールですらある。だが、リベラリズムや政治的正しさに背を向け、他者の権利に侵害的ですらあるような言説を、「理解する」だけでなく「楽しむ」ことはできるだろうか。いや、もっと言うなら、ウエルベックの文章の危険な魅力とは、そうした言説を「理解させて」しまうだけでなく「楽しませて」しまうところにこそあるのではないだろうか。
 このことは、読者が自らをリベラルな立場に身を置くと自覚するなら、いっそう問われるべきことだ。いま一度リンデンベルグの『秩序への回帰』、その二〇一六年改版のあとがきを参照してみよう。そこで著者は、リベラルな人間の一部が新反動の言説に対して迎合的であることを指摘していた。また文学作品の内容に問題があっても文体や表現が優れていれば不問に付す傾向を「作家の免状」と呼び、その審美的免罪を批判してもいた。こうした批判が一面的で、文学作品の論理を捨象しているのは事実としても、芸術性をひとつの隠れ蓑とし、批判的な検討を怠ってはならないのもまた事実だ。
 人はしばしばウエルベック作品における思想表現の両義性や独特のアイロニーを指摘してきたし、前回の私もそれを指摘した。だが、それが作品の文学的特異性を思考するための導きではなく、単純な紋切り型的逃げ口上になっていはしないかと、同時に懼れる。まるでウエルベックを読むことは、何かしらの正当化を要請せずにはいないかのようだ。「ウエルベックね、手放しでよいとは思えないけど……」というエクスキューズがしばしば愛読者の口の端にすら浮かぶのは、読者の困惑の深さを物語るものだろう。
 その後ろめたさからふと思い出すのは、フランス革命前夜のブルジョワジーが、サド侯爵の発禁本を本棚の見えないところに所蔵し、こっそり読んでいたというどこかで聞いたような逸話だ。ウエルベックはしばしばサドに比較されてきたが、それは彼らの作品が読者と結ぶ、サドマゾ的な関係性の近さも手伝ってのことだろう。だがウエルベックは、ブルジョワジーでなくリベラリストに鞭を振るう。ではリベラリストは、彼の本を書架に置くとき、マゾヒズム的な秘かな愉しみを享楽するのだろうか……。

 私はここで、やや無造作に自分の戸惑いを記してみた。もちろんウエルベックの作品世界は以上のような政治的側面に回収されるものではない。また政治・経済的側面に関してすら、左派ウエルベック主義とも言うべき、ウエルベックに批判的思考を読む試みも数多く存在する。それでもあえて新反動をめぐる問題にこだわったのは、今日言論の場に地歩を固めつつある新反動の言説を理解させ、ひょっとすると楽しませる、そんな奇妙な力をウエルベックの作品に認めないわけにいかないからだ。そしてその言説との微妙な距離感によって自らを位置づけるウエルベックの立ち位置は、やはり稀有な実践の産物に違いない。彼を反動と呼ぶか否かは、そこに微妙な距離感を認めるか否かで決まるだろう。
 あるいは、こう言ってもいいかもしれない。すべてが演じられるのは、「反動(リアクション)」と「抵抗(レジスタンス)」の間の、微妙な距離感においてであると。同じ接頭辞reを冠する語でありながら、その政治的含意は対極と言っていいほど異なる。レジスタンスの語は、フランスでは今日でもなお、ナチ占領下の抵抗の記憶に結びついた特殊な輝きを放つ。にもかかわらず、両者の間には微妙な隔たりしか存在せず、反動と綽名された者が「いや、自分は現代の思潮に対する抵抗の徒なのだ」と大声で主張できるという事実に、あらためて素朴な驚きを感じてしまう。反動か、それとも抵抗か。この二つのreを峻別する精神こそ、ウエルベックを読む私たち、いや現代社会に直面する私たちに、必要なものではあるまいか。
(フランス文学・思想)







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