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評者◆稲賀繁美
収斂と発散、反転する「両界曼荼羅」
「阿頼耶識」「如来蔵」から発芽する霊性――安藤礼二著『熊楠――生命と霊性』(河出書房新社)を読む
No.3494 ・ 2021年05月01日




■アンリ・アトランHenri Atlanという生物学者がいる。近年『スピノザ講義』も書籍化されたが、一般向きには『結晶と煙とのあいだ』『偽にして真』A tort et a raisonなどの著書が知られる。後者はa tort ou a raison(真偽はともかく)という判断中止の慣用句を捻った駄洒落。安藤礼二『熊楠』を繙くにつれ、このふたつの語句が音叉のように脳中で共鳴して唸りをあげた。
 粘菌研究で知られる南方熊楠は本邦におけるecology提唱者。同時代には「個体発生は系統発生を繰り返す」が風靡した。だがこのヘッケルの箴言は、現在では「時代遅れ」。そうアトランも一蹴する。それなら生命とは? と問うと、回答は結晶と煙霧との間で見失われる。分子生物学は生命を捉え損なう。あるいは捉えた生命は死物と化す。たしかにヘッケルも粘菌を図譜に描いたが、それはもっぱら「結晶化」した「植物」の死相。対するに熊楠の野帳を見ると、変形体という「動物」相、「痰」よろしき原形質流動、ゾルとゲルとの位相交替によって移動しつつ捕食し、毒物を回避する単細胞の活動が観察される。そこには原初の「意志」あるいは「意識」の萌芽すら想定できる。そして動物か植物かという分類学の樹状模型の「真偽判別」を無効にする根茎状の中間錯綜体ゆえに、熊楠は那智の常緑樹の鎮守の森で粘菌探訪に埋没した。
 本書は安藤の熊楠探求におけるひとつの「萃点」を
なす。冒頭の「粘菌・曼荼羅・潜在意識」は、結晶と生気の振幅を自在に跨ぐ粘菌の営みを、熊楠自身の脳髄における潜在意識と顕在意識との往還に重ね、そこに空海が彫琢した両界曼荼羅の動態を透視する。この大胆にして周到なる仮説を、安藤は、ここで一気呵成に紡ぎ出す。金剛界曼荼羅が、燦然と輝く振動結晶体からなる分節化された宇宙ならば、その裏には胎蔵界曼荼羅の混沌が粘菌の変形体よろしく流動している。胎児の動物性が植物の結実たる胞子へと変貌を遂げる。だがそれは定方向運動ではなく、可逆性を宿しており、一方を是とし他方を誤とする是非の論理を裏切る。「偽にして真」。安藤はここに鈴木大拙の「即非の論理」、西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」を重ね合わせ、それら相互に共振現象が発生していた現場を、周到な文献学的手続きに立脚して活写してみせる。
 教科書的に要約するなら、本書の達成は以下の三点に要約できよう。まず熊楠を特異点として東西の世界思想史の交錯の実相に迫った。次に、従来の実証論理に立脚した思想史研究の限界を克服するうえで、熊楠の曼荼羅思考を生きた「方法」として受肉した。さらに華厳経の因陀羅網をなす無数の宝珠の相互照映を範型として、思考伝播の生態学・方法序説を提案した。
 玩具箱はきれいに整頓されれば死んでしまう。混沌の森でこそ玩具は活性化する。本書は古典的な意味での書物へと収斂しようとはしない。巻末に登場する稲垣足穂の「宇宙模型」は、頂点を共有する逆さ向きのふたつの円錐を描いていた。ノーベル賞受賞者ロジャー・ペンローズが多用するnul‐cornだが、内と外、過去と未来とが反転を繰り返すこの永劫回帰の変異点は、「永遠の現在」を定位し、生成の起源をなす「零度」、分解が生成を約束する、両界曼荼羅の幽顕の間隙。管tubeとしての生命の原初の襞。それはまた霊性spirituality発現の場でもあった。
 安藤礼二の「玩具箱」。そこには無数の文献が吸引され、そこから幾多の思考が発散する。すでに夥しい数の種子が飛散され、発芽を待っている。発生した磁場の近傍には、近年、少なからぬ宝珠が連鎖し始めている。汝書き急ぐ勿れ。結晶と化した玉は打ち砕くべし。結晶cristalの秩序と霧散する雲煙fumeeとのあいだを万物は流転し、「よじれ」tortと「ことわり」raisonのあわい、エントロピーの宙空に漂うネゲントロピーの皮膜に生命は宿るのだから。『大拙』『迷宮と宇宙』に伍した本書の、ひとたびの「中仕切り」、仮初の「総決算」を受けて、今後のさらなる「変態」metamorphose、「転回」revolutionに期待してやまない。

*安藤礼二著『熊楠――生命と霊性』(2020年刊、河出書房新社)







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