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評者◆稲賀繁美
「徳川の平和」「夜明け前」の『蘭学事始』から文明開化の『米欧回覧実記』へ――芳賀徹著『文明の庫』第一巻「静止から運動へ」、第二巻「夷狄の国へ」へのいざない
No.3495 ・ 2021年05月08日




■帯に「比較文学・比較文化の泰斗の巨大な遺産」とある。昨年八八歳で他界した著者の生前から構想され、没後一年を経て上梓された。病床の著者から「あとは頼んだぞ」と後事を託された編集担当の吉田大作氏の労を多としたい。題名はいうまでもなく幸田露伴に由来。表紙は司馬江漢が「日本創製」を誇った腐蝕銅版画に手彩色を施した《三囲図》(天明三=一七八三年、神戸市立博物館蔵)。第一巻「静止から運動へ」の表紙にはその左半分、第二巻「夷狄の国へ」には同じく右半分があしらわれている。透視図法を駆使した図柄では、隅田川に設けられた堤が大きく湾曲しつつ画面奥に消失してゆくその左手に三囲神社の境内がみえ、「右岸」には今戸の瓦焼きの煙がのぼり、渡し船や屋形船が往来する川面の遥か奥には筑波山が遠望できる。眼鏡絵の趣向なので、現実とは画面の左右が逆転しているが、版画による印刷は逆版となるため、蘭学者は、もともと銅板に版刻した際には、眼にした実景をそのままニードルで刻んだはず。空の青いことを「発見」したのも蘭学者たちの手柄だが、彩色には舶来のプロシアン・ブルーが生かされ、先駆者の創意工夫と稚拙さとが一品に集約されている。
 上巻四二六頁、下巻四八三頁の大冊に圧倒されるが、あるいは巻末に完備の欧文綴併用の索引に導かれ、あるいは題名に惹かれて気の向くままに読み進めれば、いつしか著者とともに「徳川の平和」の最末期の只中へと誘われ、やがて「海ニ火輪ヲ転ジ」、米欧諸国歴訪の回覧に旅立つ知
的前衛の俊秀たちの歩みを追体験することになる。
 Pax tokugawanaを「発案」した著者は、しかし天明の飢饉に際会した出身地・奥羽の疲弊も見逃さない。米澤藩の改革派がいかに名君・上杉鷹山の出現に繋がったか、その展開が歴史小説顔負けの筆致で活写される。さらに人体解剖の腑分けを切っ掛けに解剖学蘭書の翻訳に着手した杉田玄白。「櫓舵なき船の大海に乗り出せしごとく」と『蘭学事始』に回顧される徒手空拳の無謀は、やがて自らは文字通り海路で洋行体験を積んだ福澤諭吉の感涙を誘うこととなる。
 さらに時代を下れば、福澤の『西洋旅行案内』を懐中に太平洋を渡った「きかん坊」西園寺公望。この「不良少年」は滞在先で「パリ・コミューン」を実体験し、やがて昭和に自ら推挽した近衛文麿が右翼革新派に靡くのを憂慮しつつ、「最後の重臣」として、対米開戦前年に歿する。
 岩倉使節団・久米邦武編『米欧回覧実記』については一九六一年、著者三〇歳の覇気あふれる長文論考から、二〇一五年刊行のヴィーン万国博体験分析まで、半世紀を超えるスパンの論考が拾われている。そこには生粋の「前衛知識人」、「若く美しき学問」への「驚きと喜びにあふれた」著者の人生航路が二重写しで辿られる。これといった居丈高な方法論も見せず、史上の人物が「等身大に息づく」様に細密に肉薄し、「生の字」の「記述のリズム」に同調する。この無手勝流・天衣無縫と称すべき著者の筆運びは一代藝、もとより剽窃や追従など許さない。
 だが、渡邊華山を指して著者が名付けた「やさしい旅人」、佐賀・鍋島藩に発芽した「文明の技師」たる矜持が、著者の生気滴る「感性と心理の鍵盤」を最後まで調律していたように思われる。
 栗本鋤雲は左遷同様の函館勤務の北海道開拓からフランス派外交官へと抜擢された幕臣だが、その『匏庵遺稿』を著者の書斎に見つけて懐かしげに手に取るや故郷に持ち帰ってしまった農林技師、著者の祖父・藤田秋助の姿も点描される。それは芳賀徹に至る知の血脈、実務派洋学者の学統を、その源にまで遡って見遥かす眺望といってよい。
 上巻所収の「犀はさまよう」は一五一五年リスボンに荷揚げされた犀がデューラーによって描かれ、ヤン・ヨンストン経由でその図像が極東に請来され、谷文晁の手で「駒下駄」を履き、背中に角を生やすに至る顛末を軽妙に描く。諧謔にも欠かぬこの愉快な東西文化交流譚の抜刷りや、渡邊華山の『四州真景図』の大型複製本を、著者は学生にホイと手渡すのが常だった。
 谷文晁《公余探勝図》展覧を、留学生も交えた引率旅行で栃木に訪ねたこともある。九〇年代には「秋田蘭画の不思議」の原型をなす、目も醒めるように新鮮な英文講演をアムステルダムで拝聴し、評者もその場で対となる講演を一席申し上げた――。私事にわたるが、そうした追憶が次々と懐かしく蘇ってきたことを、最後に一言付言させて頂きたい。

※芳賀徹『文明の庫』中央公論新社、2021年2月10日、I:本体3500円、Ⅱ:本体3600円







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