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評者◆関大聡
ジョフロワ・ド・ラガヌリー、エドゥアール・ルイ、政治的アンガジュマンの行方――ディディエ・エリボンとその友たち(後篇)
No.3515 ・ 2021年10月16日




■「当時田舎町〔ランス〕で、私はサルトルだけを信じていた」――エリボンは『ランスへの帰郷』にこう書いている。構造主義、ポスト構造主義が一世を風靡し、サルトルの実存主義など時代遅れと見なされた七〇年代初頭のことだ。時を経て二〇一八年、「ル・モンド」に取材されたエリボンは、サルトルやボーヴォワールも上客だったパリ・モンパルナスのブラッスリー「ル・セレクト」に足繁く通っている。どこか素朴な、子供っぽい憧れの成就を見るようだが、いまの彼は独りではない。若き社会学者・哲学者のジョフロワ・ド・ラガヌリーと、なお若き作家エドゥアール・ルイが傍らにいるからだ。
 彼らの関係は「家族」の比喩や「先生と生徒」の間柄ではうまく語れない、と取材した記者は綴る。むしろ、ミシェル・フーコーが「生き方としての友情」と呼んだ意味で「友たち」と呼ぶべきだろう、とも。前篇ではエリボンの著作と思想を扱ったので、今回は友である二人が彼の仕事をどう引き継ぎ、展開させたかを話題にしたい。

 エリボンと同様、ラガヌリーの仕事もブルデュー、フーコー、サルトルに影響を受けている。その仕事を一言で言い表すなら、「思考の創造性の探求」となるだろう。
 出発点は大学への批判だ。『大学の帝国』(二〇〇七)は、「学者」による知の占有状態を強く批判する。七〇年代以降、マス・メディアにおける知の扱いへの危機感を背景に、学問の場としての大学の復権が謳われていた。一見まともなこの議論は、しかし、大学の内/外という境界を築き、自閉して世間に背を向けた「学術コミュニティ」を強化しただけではないか、と彼は指摘する。かといって大学の外に出て、「在野」の矜持を見せよ、というのではない。むしろ大学/在野の垣根を越え、制度に批判的な人間からなる「異端のコミュニティ」を形成せよ、創造性は制度への抵抗から生まれるのだから。これはラガヌリーの変わらぬ主張になる(なお異端という語はエリボンの『異端』〔二〇〇三〕への参照)。
 真に創造的な思考とは批判的思考であり、制度(制度的思考)に対立する。この主張は『創造の論理』(二〇一一)でさらに理論的に掘り下げられるが、『反抗の技法』(二〇一五)はその実践篇とも言える。同書で扱われるエドワード・スノーデン、ジュリアン・アサンジ、チェルシー・マニングは、国家機密・軍事機密を漏洩することで国家への反逆者になった。ウィキリークスに代表される彼らの反抗の技法には、「何か新しいもの」があるのではないか。著者はその解明を試みる。
 他方、市民的不服従の権利などを挙げて説明を試みる従来の政治的思考の論理は、彼らの新しさの認識の障碍になっているのではないか、とも批判する。実際、政治は批判的(対立的)で創造的な思考が生じる特権的な場であるにもかかわらず、理論的にも実践的にも、極めてコード化された場でもある。理論的には、国家や主権、人民などのカテゴリー的認識が強固に存在していて、実践的には、デモやスト、署名集めなどの様式化された文化が存在する。それゆえ、政治において創造的=批判的であろうとする者は、こうしたコードの刷新を望む者でなければならないだろう。この点では、アガンベンやムフ、バトラーなどの政治哲学を批判した『政治的思考』(二〇一九)が理論篇、アッサ・トラオレとの共著『アダマ闘争』(二〇一九)が実践篇にあたる。
 とりわけ後者は、フランスにおけるジョージ・フロイド事件とも言われる、警察の暴力によって死亡した黒人青年アダマ・トラオレのために組織された「アダマのための真実と正義」委員会の立場を説明したものだ。ラガヌリーはこの運動に積極的に関与し、委員会の意義を代弁していた。以上の短い紹介からも、彼の活動が、エリボンにも増して、理論と実践の緊密な連動に基づくものであることが理解できると思う。

 ルイに話を移そう。自身について語ることの少ないラガヌリーと異なり、彼は作家として自己表現を職分にしてきた。その中心的テーマは「変わる/変える」だ。
 二二歳のデビュー作『エディに別れを告げて』(二〇一四)は、発売から間もなく三〇万部を超えるベストセラーになった自伝的小説で、今回紹介する著書のなかで唯一日本語訳がある(東京創元社、二〇一五)。筋書きは『ランスへの帰郷』に似たところがあり、現にエリボンに捧げられている。「女の子みたいな」少年エディは、保守的価値観の根強いフランスの田舎町に育ち、家族の無理解、周囲の中傷、侮辱、暴力に遭い、そこからの逃亡を願う。当時熱中していた演劇、そして彼の聡明さが彼に「狭き門」を開いた。自分のゲイネスを認め、フランスの名門・高等師範学校への入学を果たし、名前もエドゥアールに改名した。彼は変われたのだ。
 では家族は見捨てられ、田舎町の停滞した世界に残るのだろうか。『僕の父を殺した人』(二〇一八)、『ある女性の闘いと変身』(二〇二一)では、父母の身に生じた「変化」が描かれている。そもそも父母は、息子のことを嫌ったわけではない。同性愛をオカマと罵り、少年を希死念慮に追いやり、どうしたら「治る」のかと必死に祈らせた一方で、家出を試みた少年には「みんなお前が大好きだよ」と言い、労働者階級ばかりの一族で異端なほど聡明なエディのことを、誇りにも思っていた。息子への父母の眼差しには、恥と誇りが混じり合っていた。
 他方で、父母に対する息子の眼差しにも、両義的な感情が混じり合う。エリートコースを歩み、徐々に階級離脱を進めた彼は、次第に両親のことを恥に感じる。だが、彼らを憎み切るには、思い出はあまりに優しい。「時々、僕はあなたのことが好きだと思う」と彼は父に向けて書く。その父と離婚した母は、かつてそうであったような自由な女性に戻った。「僕はあなたが誇らしかった、そのことはちゃんと言ったかな?」それから彼女はパリに出て、万事快調とはいかないにしても、幸せを取り戻す。母は、変わった。
 捨てられた父親は悲惨だ。健康状態も悪化した。彼には工場労働時に負った怪我があり、失業後も社会保障が政府方針で減額されたため、無理を押して清掃業で糊口をしのいだ。父の身体を破壊したのは、左右を問わず時の為政者たちだとルイは告発する。というより、「あなたの身体の歴史が、政治の歴史を告発している」。ところが最近、父はかつてのように外国人嫌悪や同性愛嫌悪を露わにすることなく、フランスのレイシズムを批判し、息子に恋人のことを尋ねてくるという。父もまた、変わる。あるいは、変わりえた(健康状態の悪化は、それを見届けることを許さないかもしれない)。
 英国の映画監督ケン・ローチが彼との対談本『芸術と政治についての対談』(二〇二一)で言ったように、ルイは「人の内なる矛盾した要素」を描いてきた。人が変わることがありうるとしたら、それは他人からの一方的な影響によってではなく、その人自身が様々な要素の間を常に揺れ動いているからだ。だからこそ、政治は人の最良の部分を引き出す義務がある、とローチは言う。近刊の『変える、方法』(二〇二一)は未読だが、変化を軸としたルイの変わらぬ歩みをそこに確認できるものと思う。

 ルイは、自分が幼少期・家族関係に何度も立ち返り、しばしば同じエピソードを語ることについてこう書いていた。「僕は繰り返しを恐れない。僕が書くもの、僕が言うことは文学の要請には従わない。それは必要の、緊急の、炎の要請に従うのだ」。実際、作家であるルイにとって「文学」とは警戒すべきものだ。「美的要請」の名のもとに語られる一切(文体への配慮、現実との距離、自律性の確保)は、支配階級の特権に奉仕するものではないか疑ってみる必要があると、この労働者階級出身の作家は言う。
 『不可能な芸術』(二〇二〇)のラガヌリーは、この「文学」への警戒の必要をさらに先鋭に問う。根底にあるのは、私たちは暴力や抑圧の渦巻く「悪しき世界」に生きている、という認識だ(『悪しき世界で考える』二〇一七)。この世界で物を書き、発表するというのは、社会秩序に対する何らかの態度表明、加担であり、中立的であることはできない。したがって、秩序と特権の共犯者であることを望まないなら(望むなら厚顔無恥だ)、積極的に対抗する必要がある。ところが、芸術とはそれ自体が特権的な場であり、「芸術的抵抗」と称されるものは、ほとんどの場合それが抵抗する相手と共犯的である。最悪の場合、それは人を政治的な直接行動から逸脱させるものであり、「ある意味で、芸術をするとは革命をしないことだ」。だとすれば、「作家としての僕の生は恥の生だ」とルイが言ったように、芸術は恥の意識なしには実践できないもの(=不可能な芸術)ではないか。
 それでも誇りをもって芸術をなすことを望むならば、現実的な有効性の美学に基づき、「対抗の芸術」を創造せねばなるまい、と著者は言う。これでもマイルドに要約したつもりだが、率直に言うと、本書は読みながらもっとも感情的反発を感じた一冊である。世界情勢や、政治的急進主義に後押しされ、ラガヌリーとルイの言説には切迫した調子が増してきた。『政治的無力からの脱出』(二〇二〇)でもラガヌリーは、伝統的で儀式的な政治行動(集会、署名、デモ等)を批判して、政治は現実的で実効的でなければならないと強調していた。ブルデュー的な自律概念を批判する彼は、この種の政治的功利主義を芸術の世界にも要求する。彼が標榜する倫理主義(「悪しき世界で良き生を送るにはどうすべきか」)は、万人に恥の意識を植え付けるものとなろう(万人ではなく物を書き、創り、発表する人間に限られると著者は述べているが、それは容易に万人に向かうものだと思う)。
 ここからは個人的な感想を書く。私は、恥の意識をもつひとを愛するが、誰もが恥の意識をもつべきだとは思わない。それは、自分に恥を抱かせてきた社会への復讐のようなものにならないかと懼れる。そして芸術家が、現実との関わりで恥の意識を抱くとしても、彼女や彼が自分を誇らしく思うための仕方は、現実に有効な仕方で働きかける以外にもあるのではないかと思う。だが、私がそのように思うのは、私が芸術に内在する価値を信じ、文化や書物にフェティッシュで特権的な快楽を感じているからではないか、と自問せざるを得ない。
 何より困惑させるのは、この議論がサルトルや彼の現実参加(アンガジュマン)の論理と似てくることだ。現にラガヌリーは「飢えた子供の前で『嘔吐』は重みをもたない」というサルトルの言を、作家の恥の意識の表明として引用する。「当時田舎町で、私もサルトルだけを信じていた」と言えばまったくの嘘になるが、ある程度昔からサルトルを介して物を考えることを習慣にしてきた私にとって、ラガヌリー/ルイの現実参加の論理は、にわかに退けられるものではない。
 たしかに言えるのは、彼らの著作と現実参加の実践が、賛否を伴いながらも徐々に浸透しつつあり、それが現代の、そして現代芸術のひとつの要請に応えつつあるように思えるということだ。それでもなお、私は最後に、エリボン最初期の著作(『デュメジルを焼くべきか』一九九二)に立ち返っておきたいと思う。そこで彼は、近年のメディアでは論争ばかりが取り上げられ、著者の政治的意見と結びつけずには書物や作品が読まれなくなっていることを嘆き、「思考の倫理や知的議論の倫理」が守られるべきだと書いていた。もちろん、これは政治と無関係に思考や議論が可能だという意味ではない。だが、両者の関係は壊れやすく脆いものであるからこそ、時には政治に反して思考を守る、ということさえ必要になるのではないか。
 そう思いつつも、この「時には」こそ問題なのだということを、やはり痛感してしまう。
(フランス文学・思想)







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