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評者◆関大聡
芸術の秋とキャンセル・カルチャー――ロール・ミュラとジゼル・サピロ
No.3523 ・ 2021年12月11日




■「芸術の秋」という言葉はフランスで生まれたのではないかと思うほどだ。文学賞が軒並み発表され、演劇はオータムフェスに盛り上がり、オペラも本格的シーズンを迎える。曲がりなりにも文学研究者としては、文学を原作にした作品と聞くと見逃せない。著名な振付師ピエール・ラコットによる創作バレエ『赤と黒』(スタンダール原作)が話題をさらい、オペラではヴェルディの『リゴレット』(ユゴー原作)が上演され、映画ではグザヴィエ・ジャノリ監督『幻滅』(バルザック原作)が封切られた。
 いずれも一九世紀前半の時代状況を見事に反映した作品だが、今日の私たちに何を教えてくれるだろうか。『幻滅』を例にとろう。舞台はパリ。田舎から上京した青年リュシアン・ド・リュバンプレの夢は芸術の都で詩人として認められることだが、彼の詩に関心をもつ者はいない。時代はジャーナリズム全盛期、芸術の価値は新聞・雑誌にどう書かれるかで決まるのだ。おのずとリュシアンもジャーナリズムに身を投ずるが、それにより政治的な緊張関係に巻き込まれる。復古王政期と呼ばれた一八二〇年代は、フランス革命、ナポレオン時代を経て、王政が回帰した反動の時代だった。出版の自由のために闘うジャーナリストたちは自由主義者(リベロー)と呼ばれ、王権支持の王党派(ロワイヤリスト)と鋭く対立していたのである。
 いつの時代も左と右はいがみあう。だが、かつての「リベロー」と今日の「リベラル」には大きな違いがある、とすかさず指摘する人がいるかもしれない。つまり、リベローにとって最大の課題は表現の自由の擁護で、検閲こそが宿敵だったのに対し、今のリベラルは表現の自由を抑圧し、検閲を復活させようとしているではないか、と。
 「キャンセル・カルチャー」と呼ばれる問題がそこにある。非常に曖昧で問題含みの概念だが、ひとまず「問題のある言動を行なった人物やその作品を、公的地位やメディアから追放しようとする運動」だと定義しておく。ここで問題のある言動と呼ばれるのは、人種差別、民族差別、性差別など、特定のアイデンティティやマイノリティに関する発言であることが多い。また現在に限らず、過去の言動まで掘り返され、責任を問われることも少なくない。背景にあるのは#MeTooやBLM、最近ではwoke(ウォーク)と呼ばれている社会的不公正への批判意識の高まりだ。それら運動(の逸脱)に批判的な人々が「キャンセル・カルチャー」という語を使い始めたと考えてよいだろう。
 したがってこの語は中立的な用語とは言いがたく、概念も問題含みであるが、フランスでも活発に論じられている。筆者がとりわけ注目しているのは、三人の研究者の議論だ。文化史研究者のロール・ミュラ、文学社会学者のジゼル・サピロ、そして芸術社会学者のナタリー・エニック。三者三様に立場は異なるが、文化、文学、芸術という、己の表現に対する責任が最も問われる領域を専門としている点で、彼女らの議論は傾聴に値する。今回は前二者の論を補助線にしてみたい。



 キャンセル・カルチャーがフランスの新聞・雑誌で扱われるとき、ほとんど必ず強調されるのは、それが「アメリカ発の」文化だということだ。おそらく日本でも同様だと思うが、とりわけフランスではアメリカ文化とフランス文化の違いが好んで持ち出される。たとえば#MeTooの初期、アメリカの性に厳格な清教徒(ピューリタン)的道徳に反対し、「言い寄る自由」を擁護する寄稿が「ル・モンド」(二〇一八年一月九日)に発表され、女優のカトリーヌ・ドヌーヴも署名していたことが話題になった。この辺りの事情は日本でも論じられたが、「アメリカ化」に対するフランス社会の抵抗は殊のほか強い。
 それだけではない。「ジェンダー」、「人種」、「脱植民地主義」などの批判理論は「アメリカの大学」から輸入されたものとされ、そのこと自体が理論を拒絶する理由になっている(本連載の福島亮の時評も参照されたい)。一例を挙げると、「ニューヨーク・タイムズ」で日系カナダ人ジャーナリストのノリミツ・オオニシが「アメリカ的発想はフランスの結束を脅かすか?」(二〇二〇年二月九日)という文章を発表し、こうした理論がフランスで毀誉褒貶の的になっていることを指摘すると、「ル・モンド」の編集長ミシェル・ゲランが論説(二月十四日)を発表し、問題なのは脱植民地主義自体ではなくその濫用なのだと反撃。空中戦の様相を呈した。
 現在カリフォルニア大学で教鞭をとるロール・ミュラも、『性の革命? ワインスタイン以後の考察』(二〇一八)で両文化の相違を考察している。たしかに、ジェンダーを例にとっても両国の考え方は違っており、セクハラに関する法制度も歴史も異なる。だが、その違いを固定化して「フランスは例外だ」と結論づけるなら、現代の女性が直面している普遍的問題に目を覆うことになる、と彼女は言う。若い世代が直面しているのは、性に関する「当たり前」が当たり前でなくなっている事態であり、性的合意を求めるからといって、それを「ピューリタニズム」や「アメリカ化」と呼ぶことはできない。著者の言を借りるなら、むしろそこで生じているのは「社会の全面的な進展」なのだ。
 ミュラの議論はフェミニズム、反レイシズムの運動に共感的だが、他方でネットによる告発が諸刃の刃であることも認めている。キャンセル・カルチャーをめぐる「ル・モンド」への寄稿では、告発がしばしば過剰に陥ること、それをよく思わない人から見れば「マイノリティの専制」、「検閲への訴え」、「不寛容、村八分」と目されうることも指摘されている。だが、これまで不均等な立場に置かれ、沈黙を強いられてきたのは誰だったか。この点が問われねばならないと彼女は喚起する。「誰が何をキャンセルしているのか」、これは現在彼女が用意している小著の題でもあるが、あらためて問われるべきことだと思う。



 もしキャンセル・カルチャーが一種の検閲文化だとするなら、フランスにおける長い検閲の歴史はそれを「アメリカ的」と呼ぶことをなおのこと躊躇させる。検閲研究は枚挙に暇がないが、ここではジゼル・サピロの『作家の責任』(二〇一一年)を挙げておきたい。著者は社会学者ピエール・ブルデューの高弟で、文学社会学を主な研究領域としている。『作家の戦争』(一九九九年)や『フランスにおける作家と政治』(二〇一八年)などの大著はこの領域の記念碑的研究であり、二〇一四年の著書『文学社会学とは何か』は日本語訳されている(世界思想社、二〇一七年)。
 『作家の責任』では、まさに『幻滅』のリュシアンが生きた復古王政期に始まり、ナチス・ドイツによる占領と解放期に至る一五〇年近くの間に、作家の責任概念がどう変遷したかを、裁判資料をふまえ明らかにしている。多岐にわたる議論を要約するのは不可能だが、「表現の自由」、「芸術の自律」、「作者と作品の区別」など、今日ではある程度公認された主張が、いかに揺れ動く公的議論の的になってきたかを明らかにする分析は一読に値する。作家はそうした国家・社会の追求に対して、法的責任とは異なる倫理の構築を目指すことで、自分たちの自律を確保しようとしてきた。表現の自由をめぐる今日の議論は、こうした歴史的議論の延長から理解されなければ、真の射程を見失ってしまうだろう。
 近著『作品と作者は区別できるか?』(二〇二〇)でサピロは、今日の論争に対する彼女自身の見解を提示している。扱われるのは、フランスの権威ある映画賞セザール賞の受賞が議論になったポランスキーや、ペドフィル作家ガブリエル・マツネフ、『黒ノート』刊行により反ユダヤ主義問題が過熱している哲学者ハイデガー、ノーベル賞受賞者だがユーゴ紛争に関する発言が問題視された作家ペーター・ハントケなど、極めてアクチュアルな文学とモラルをめぐる議論だ。
 一言注釈しておくと、これらの論争で作品の検閲や公開停止まで要求されることは滅多にない。むしろ抗議の声は、これらの作家が名誉ある賞を受けることや文学史・思想史の正典の地位に安住していることに向けられている。その意味でも、「キャンセル」自体が目的ではなく、そうした作品を社会がどう受け止めるかが問われている、と言った方がよいと思われる。
 サピロの論に戻ろう。結論から言えば、彼女は検閲や「キャンセル」には賛成しない立場である。今日の論争は、芸術と道徳の関係について新たな見方を提示し、かつ過去の作品に対する再評価も進めているが、そうした再評価が可能なのも、作品が作品として残り、アクセス可能だからだ。したがって検閲によって抑圧するより、作品を分析すること、それも、作品がもつ相対的な自律性を尊重しつつ、作品の内部(テクスト)と外部(コンテクスト)を同時に分析することが必要ではないかと彼女は言う。それは、とりわけ研究者を始めとする文化の媒介者たちの役割であり、果たすべき責任だと言える。
 だが他方で、「言葉が人を殺す」ことがあるというのも、歴史が教える教訓だ。そのため、作品の保護に関しても留保されるべき点が残る、と彼女は続ける。たとえば人種的憎悪や性差別を煽る作品、弱者をスティグマ化したり性犯罪を擁護するような作品に関しては、それが表現を逸脱して当該行為の擁護、弁明になっているとき、表現の自由の枠組みを超えてしまう。それらの言動はそもそも法律で処罰される対象なのだ。だが、もちろん法律は万能の正義ではない。法が時代に合っていないとき、あるいは適切に運用されていないとき、公的な議論が必要になる。フェミニズムや反レイシズムの活動は、まさにそうした議論を目的としているわけだが、他方で彼らの言動にも、己の議論の責任を引き受けることが要請される。
 サピロの議論は明晰で、慎重な議論を展開している。表現の自由をめぐる議論は、その無条件的神聖視によってでも、その時代の道徳への従属によってでもなく、専門家と公的な議論の協同によって進められねばなるまい。しかし、彼女が言う「擁護(apologie)と表現(representation)の区別」というのは、議論が分かれる論点だろう。小説の登場人物の発話は、一般に作者の意図とは区別して理解されるが、その点を逆手にとり、ひそかに差別的言動を作中に忍び込ませることもありえないわけではない。芸術表現であることが「アリバイ」として働くこと、それが近年ではまさに批判されているのだ。それゆえ、表現の自由をめぐる論争は、まだまだ議論を尽くされていない印象を受ける。



 今回の稿では、キャンセル・カルチャーをめぐるフランスでの議論の基礎の部分を紹介した。比較して言うなら、ロール・ミュラは社会運動により共感的な立場、ジゼル・サピロはより中立的な立場をとる論者と言えるかもしれない。ともあれ両者ともに公的な議論や批判を検閲行為と同一視することは厳密に避けており、「キャンセル」という語はその混同を招きやすく危険である。だが、とりわけインターネットを手段とするとき、批判と検閲行為の区別が時に困難になるのも事実だろう。そうした暴走や逸脱は彼女らの論では捉えにくい。
 本来ならこのままナタリー・エニックに話を進めたかったが、どうやら紙幅は尽きた。一言だけ触れるなら、彼女の論調は前二者とは全く異なる。その批判の主な矛先は社会運動や政治活動の論理に汚染されたとされる学問の世界の逸脱に向けられるのだ。だが、活動家主義が研究にもたらしたのは「不毛さ」だと断定する彼女の議論を正面から受け止めるのは気後れすら覚える。豊饒な秋を言祝いでいたと思いきや、私たちは不毛な冬の時代を生きていたのだろうか。
(フランス文学・思想)







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