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評者◆福島亮
追悼アルマン・ニコラ――『マルティニック史』、闇への否
No.3535 ・ 2022年03月19日




■「歴史の表舞台に、黒人たちをあげよ。」一九五六年、パリで行われた演説を、エメ・セゼールはこのような叫びで締め括っている。そしてアルマン・ニコラの仕事とは、畢竟この叫びへの応答に他ならなかった。
 享年九七歳。一月二八日に誕生日を祝われ、その翌日、彼は旅立った。
 アルマン・ニコラは、仏領アンティル諸島のひとつ、マルティニックを代表する歴史家である。コロンブスによる「発見」以前から一九七一年までの歴史を綴った主著『マルティニック史』全三巻(九六、九八年)は、仏領カリブ海に関心を持つ者にとって欠かすことのできない基本文献だ。
 二〇一七年十二月二九日、大西洋に面した町トリニテにある彼の家に私はいた。インタビューをする好機を得たからである。「体調を崩しているそうだから、会えるのはこれが最後かもしれない」――インタビューの約束を取り付けてくれた知人は、彼の家へと自動車を走らせながらそう言った。実際、私がこの伝説的な歴史家と会ったのは、それが最初で最後だった。
 私のたどたどしいフランス語にじっと耳を澄ませた後、彼の口がやおら開かれる。まるで昨日の出来事を話すかのように、第二次世界大戦中から戦後にかけての島の歴史が描き出される。それもそのはずだ。彼はその歴史を生きたのだから。「生き証人」という言葉ほど、彼にふさわしい言葉もないだろう。ここでは、この生き証人がたどった軌跡を少しだけ紹介してみたい。

 一九二五年、ニースで彼は誕生した。マルティニック生まれの父親は師範学校出の教師で、最初の赴任先がニースだったのである。母親はコルシカ生まれだった。ニコラが生後六ヶ月の時に一家はマルティニックに渡った、という話と、三四年の父の死をきっかけに母と共に父の親族が暮らすマルティニックに渡った、という二つの話があるようだが、私が直接聞いたのは前者、すなわち二五年に父母に連れられてカリブ海へ渡った、という話だった。いずれにせよ、ニコラは自身をマルティニックの人間として規定していた。
 彼の人生に目を向けると、一方で、その要所要所に権力や時代状況による進路妨害が刻印されている。四二年に大学入学資格を取得した時もそうだった。ニコラは宗主国フランスへの留学を希望し、奨学金も手にしていた。ところが、当時仏領カリブ海植民地はヴィシー政権下に置かれており、加えて合衆国による海上封鎖が行われていたために留学が差し止められてしまったのである。
 だが他方で、この妨害が彼を伝説の人にする。
 足止め期間中、彼はある青年教師と懇意になる。新米ではあるが誰もが一目置く優秀なこの教師は、アンドレ・ブルトンをして「偉大なる黒人詩人」と言わしめたエメ・セゼールだ。ちょうどその頃、セゼールは雑誌を刊行していた。四一年に妻シュザンヌや盟友ルネ・メニルと創刊した文化誌『トロピック』である。この伝説的な雑誌の四三年一〇月号巻末には、当時まだ一八歳だったニコラの論文「黒人奴隷貿易」が掲載されている。
 「私たちを導く唯一の欲求は、明らかに欠落しているものを埋めることである。私たちにやる気を与える唯一の情熱は、真実への情熱である」。論文巻頭に掲げられたこの言葉は、来るべき歴史家の闘争宣言として読むことができるだろう。
 論文の掲載と時を同じくして、ニコラの渡航が実現する。四三年当時、まだフランス本国はナチによる占領から解放されていなかったため、ニコラたち学生はフランス植民地だった北アフリカに送られた。あるインタビューで、彼は当時のことを振り返っている。それによると、彼が反植民地主義に目覚めたのは、モロッコの植民地状況に衝撃を受けたからだという。日常生活のなかに根を下ろす植民地の惨状に一〇代のニコラは打ちのめされた。
 ところで、彼と同い歳の青年が一人、この頃やはりフランスに渡っている。フランツ・ファノンである。ファノンは自由フランスに従軍し、フランス東部のコルマールで負傷する。この従軍中に知った人種差別は、ファノンにとって決定的な経験だった。アルマン・ニコラとフランツ・ファノンに共通するのは、郷里を離れることで、むしろ郷里を蝕む植民地主義と同化主義を強く実感し、人生の進路を決めたことである。
 思えば、植民地主義を批判し、反同化主義を唱え、ネグリチュードを打ち立てたのは恩師セゼールだった。師の衣鉢を継ぐかのように、留学中のニコラはマルティニック学生協会を立ち上げ、さらに、反植民地主義学生協会にも加わっている。この頃ニコラはフランス共産党に入党し、以降、彼と共産党は切り離せない関係となる。
 実際、五七年にフランス共産党支部から分岐する形でマルティニック共産党が創設された時、ニコラは創設メンバーの一人だった。日本語で読むことのできるおそらく唯一のニコラの文章は、ソ連共産党第二三回大会(六六年)議事録の邦訳に収録された「同化政策に抗して」であるが、その時の肩書きはマルティニック共産党書記長である。
 政治活動を行いつつ、五一年にニコラはマルティニックに帰還し、母校であるシェルシェール高等学校で歴史教師となった。だが、それもしばらくして妨害されることになる。
 四六年の県化法で、マルティニックは植民地から海外県に「昇格」することが定められていた。だが、いくら行政身分が変わったところで植民地状況が変わらなければ意味がない。実際、五〇年代から六〇年代にかけての仏領カリブ海では、アルジェリア戦争やキューバ革命を背景に、脱植民地化運動とそれへの弾圧が繰り返しなされていた。五九年十二月に発生した大規模な「騒乱」では、鎮圧のために艦隊が派遣された。翌六〇年にラマンタンの労働者が行ったストライキは、警官隊による発砲によって三人の死者と複数の怪我人が出る惨事となった。
 反植民地主義を訴えるニコラもまた、この頃、「秩序壊乱」を理由に罰金及び執行猶予付きの懲役刑を宣告されている。さらに、反体制的な海外県公務員を本国に異動することを定めた「一九六〇年一〇月十五日の行政命令」によって、六一年八月、ニコラを含む四人の公務員の異動が決定した。異動を拒んだ彼を待っていたのは、解雇だった。結果、七四年に恩赦を受けるまで彼は教職に就くことができなくなってしまう。
 教師・政治活動家アルマン・ニコラが、真の歴史家へと転生したのはこの時だ。
 解雇の翌年、すなわち六二年、三〇頁に満たない小さな冊子がマルティニック共産党から刊行された。「マルティニックにおける一八四八年五月の反奴隷制革命」という簡素な題の上には、歴史教師アルマン・ニコラ、と刻字されている。これが歴史家ニコラが世に出た瞬間だった。
 題名にある一八四八年は、仏領カリブ海植民地における二度目のそして最終的な奴隷制廃止がなされた年である。フランスは一七九四年に最初の奴隷制廃止を宣言する。だが、ナポレオンによって奴隷制は復活した。そして一八四八年、国会議員ヴィクトル・シェルシェールの働きによりようやく奴隷制は廃止されたのである。ニコラが教師をしていたシェルシェール高等学校は奴隷制廃止に尽力したこの国会議員の名前に由来する。
 冊子はたちまち完売し、六七年、七八年、八二年と版を重ねた。第四版刊行の時点で計一万三千部が読者の手に渡ったという。第二版(六七年)に寄せた前文で、ニコラは次のように述べている。
 「マルティニック人が自分たちの歴史をまるで知らないということが、紋切り型になっている。だが真相は、この無知の責任は本質的には同化政策、つまりマルティニック固有の特性を押さえ込む植民地体制にある、ということだ。学校では、早い時期からマルティニック人は植民化を行った国の歴史を浴びるように習うが、対する自分たちの歴史については一言も口にしない。」
 ニコラの問題意識は明白だ。自身の歴史を知る機会を奪われた結果、人々のあいだには宗主国の歴史をもとにした盲目的なフランス愛国主義が蔓延り、対して、支配に抗った者たちは、「反逆者」と位置付けられてしまう。彼らこそ自由のために闘った偉人だというのに。
 「反逆者」という時、ニコラの念頭にあるのは一人の歴史上の人物である。ルイ・デルグレス。一七六六年にマルティニックで生まれた混血の軍人である。彼は一八〇二年、奴隷制を復活しようとするナポレオンに反旗を翻し、グアドループのマトゥーバで爆死した。
 デルグレスを「反逆者」として措定する宗主国中心の歴史観では見えないものがあるのではないか。奴隷制廃止に際して、奴隷たちは、解放の到来を指を咥えて待っていただけなのか。
 このような問題意識のもと彼が着目するのは、一八四八年五月二二日に起こった奴隷叛乱である。この叛乱によって、奴隷制廃止は当初の予定より早く実施されることになった。ニコラが重要視するのは、奴隷たちが自ら立ち上がって自由を訴えたことだ。
 さて、第二版以降、冊子の表紙からは「歴史教師」という肩書きが消えてしまうのだが、私としては、初版にあった「教師」という肩書きに注目したい。
 先にセゼールとの出会いによってニコラが『トロピック』に論文を執筆したことを述べた。教師セゼールから学生ニコラへ受け継がれた精神は、植民地体制への否だった。では「教師」ニコラは、誰に何を伝えたのだろうか。
 六一年一二月にマルティニック学生総協会とグアドループ学生総協会によって、『マトゥーバ』という雑誌が刊行された。「抑圧への抵抗は自然権である」というデルグレスの言葉が雑誌の表紙に引かれている。デルグレスが爆死したマトゥーバという地名を冠した時点で、学生たちの政治的方向性は明白だ。脱植民地化である。ところで、創刊号の表紙には次のような引用も掲げられていた。
 「私たちの過去は、汲み尽くせぬ教訓の源泉である。それらの教訓のうち最も偉大なものは、人民の前進は神の意図や植民地主義者の善良な意志のおかげでもたらされるものではなく、虐げられた者たちの絶えざる闘争の結果だ、ということである。」
 この文章を書いたのは、ニコラだ。引用の下には彼の名が記されている。この言葉は、ニコラの哲学をよく表しており、しばしば引用される言葉である。先に引用した小冊子第二版(六七年)の前文で、彼自身、まったく同じ文言を繰り返してもいる。
 またこの雑誌刊行に先立ち、六一年四月にパリでマルティニック学生総協会、グアドループ学生総協会、ギュイヤンヌ学生連合が合同で行った会議にニコラはマルティニック共産党中央委員会としてメッセージを寄せ、エールを送っている。そこで彼は、「自治」の具体的計画として、「マルティニック立法議会」を持つこと、および、「マルティニック政府」を持つことを掲げていた。
 もっとも、政治家としてのニコラにある種の限界がなかったわけではない。事実、彼が書記長を務めた六〇年代から八〇年代にかけて、マルティニック共産党の影響力は減退していった。同じ「自治」路線をとる左派政党との差別化ができなかったことは大きいだろう。また、ファノンが掲げた革命路線を明確に批判したことで、急進派からの批判も招いた。九〇年、ニコラに代わってジョルジュ・エリショが党の書記長に就任する。
 引退だろうか。そうではない。書記長から退いたニコラは、大著『マルティニック史』全三巻に取り掛かり、九六年に第一、第二巻を、九八年に第三巻を見事上梓したのである。

 一八歳のニコラが論文を掲載した伝説の雑誌『トロピック』の創刊号で、セゼールは自身とその仲間を「闇に対して否を言う者たち」としていた。ニコラが引き継ぎ、次の世代へと繋いだのは、この「闇への否」ではなかったか。
 次の世代が引き継いだ「闇への否」を、ニコラはどうみていたのだろう。『マルティニック史』第三巻は一九七一年、すなわち、後続世代のラディカル化が最も進み、そして最も悲劇的な形をとる直前で終わっている。そのことは、七〇年代から八〇年代という「近過去」が、ニコラのなかで歴史化できない時間だったこと、つまり、まだ終わっていない時間だったことも意味している。歴史家として、距離を保つ必要がある。そう彼は言っていた。容易な言語化を拒むそのひりつく距離に、私はただ戦慄していた。
(フランス語圏文学)







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