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評者◆福島亮
撚り糸を紡ぐ作家たち――コンフィアン、エルノー、シャモワゾー、ベン・ジェルーン……
No.3567 ・ 2022年11月19日




■図書館で一〇月に刊行されたパトリック・シャモワゾーの新刊『凍えた羊歯のなかの北風』を読んでいると、一通のメールが届いた。送り主を見ると、ラファエル・コンフィアンとある。なにごとかと思って急いで確認すると、セリーヌの『戦争』のクレオール語訳が出たよ、というメールだった。先月、この時評で関大聡が『戦争』を論じたばかりだったので、偶然の重なり合いに興奮しつつ、改めてクレオール性の作家たちの粘り強い仕事に勇気づけられる思いがした。
 シャモワゾーの新刊については後述するとして、コンフィアンの話をもう少し続けたい。
 植民地支配と奴隷制の過程で、フランス語とアフリカの言語が混ざり合い、新たに生まれた言語がクレオール語である。話し言葉であるクレオール語の書記法を定め、辞書を作成し、外国語や新語の表現方法を模索する……コンフィアンが絶えず取り組んできたのは、このような難問の数々だった。
 数年前に彼に会った時、これからはクレオール語からフランス語に訳すのではなく、フランス語からクレオール語に訳す時代だ、と力強く語ってくれた。じっさい、彼はカミュの『異邦人』やル・クレジオの『パワナ――くじらの失楽園』をクレオール語に訳している。彼の翻訳については、クレオール語の読者などいないだろう、とか、独りよがりだ、と言って馬鹿にする人もいるが、全身全霊をかけてクレオール語を豊かにしようとしているコンフィアンの仕事は唯一無二の偉業だと私は思う。
 パリのパルマンティエ通りに、カリプソ書店というカリブ海やレユニオンを対象とした専門書店がある。グアドループ出身の女性が、クラウドファンディングをもとに二〇二〇年に開いた小さな書店だ。図書館からの帰り道、早速立ち寄って、『戦争』のクレオール語訳があるかと店主に訊いたところ、翻訳が出たことは知っているが、実物はまだ置いていないという。「流通経路が問題なの」と彼女は説明してくれた。それによると、『戦争』のクレオール語訳はグアドループの小さな出版社から刊行されており、フランス本土の流通経路にうまく乗らないのだそうだ。
 そう簡単に手に入ってたまるか、と内なる天邪鬼が囁いた。探している本がすぐ手に取れればそれはそれで良い。だが、少々味気なくもある。パリという物品の集積地のような場所にいるとつい忘れてしまうことだが、手に入らないのもまた豊かさなのかもしれない。そう思いつつ、店主が薦めてくれた大部の小説を買って店を後にした。

 書物が溢れている。とくにこの時期は秋のブック・フェアで、新刊書籍が洪水を起こしている。おまけに今年はアニー・エルノーのノーベル文学賞受賞という大事件もあった。
 エルノーは一九四〇年にノルマンディー地方の労働者階級の家に生まれた。やはり関大聡が本連載で論じたように、フランスには階級問題が根深くある。出自から抜け出すための苦しく孤独な闘いを、エルノーは一貫して描いてきた。
 彼女の作品の特徴は、その「自伝」的な書き方にある。『事件』(二〇〇〇)では、望まぬ妊娠をした大学生の中絶を描く。階級、ジェンダー、社会的抑圧(フランスでは一九七五年まで中絶が禁止されていた)といった、エルノーの文学の主題がこの小説には凝縮している。例えば妊娠が発覚した「私」が発する次の一節。
 「私は、自分の生まれ落ちた社会階級と、この身に起こったこととの関係をぼんやりと見定めていた。労働者と小商店主という一族のなかで初めて高等教育を受けた私は、工場とジレからは逃げだせていた。(…)私のなかで成長しているものは、ある意味で、社会的挫折だと言えた。」(菊池よしみ訳。一部表記を変更した)
 「私」はトイレで胎児を流産し、「ちっぽけな体」をビスケットの空袋に入れる。同じ経験をしている女性たちが、いまこの瞬間にもいるはずだ。今年の六月に合衆国で人口中絶権の合憲性が否定されたことは記憶に新しいし、また中絶とは異なるが、熊本県でベトナム人技能実習生の女性が死産した子どもを「遺棄」したとする事件は、現在上告中だと聞く。
 エルノーが用いる「私」は、エルノー本人と分かち難く結びつきながらも、そこに止まらない広がりを持っている。先に「自伝」的な書き方、という間怠い表現をしたのは、引用した一節が「私」という一人称単数の語り手に収まらない厚みを持っているからである。ノーベル賞受賞を受けて早川書房から復刊された『事件』は、別の小説『嫉妬』との合本になっているのだが、後者にはより直裁に、「私はあらゆる苦しみの共鳴箱」という一文もある。エルノーの作品を読んでいると、あたかも「自伝」のように語れられるこの「生」が、はたして誰のものかわからなくなる瞬間があるのだが、「共鳴箱」という表現は言い得て妙だと思う。
 二〇〇八年までの彼女の主要作品を集め、そこに未公開の日記や写真を配置した作品集『生を書く』(二〇一一)の劈頭で、エルノーは「生を書く」ことを巡って次のように述べている。
 「私は常に、私と私以外のものについて書いてきた。書物から書物へと流れる『私』は一つの固定したアイデンティティに割り当てることはできないし、またその声は、親や社会といった、私たちにとりつくいくつもの他の声によって貫かれている。」

 「私」は時に「私たち」であったり、「誰か」であったりする。撚り糸のような「私」の声は、本稿冒頭で触れたシャモワゾーの新刊のなかで響く語り部の声でもある。
 一〇月に刊行された『凍えた羊歯のなかの北風』は、姿を消した伝説の語り部ブリアンノ・ネレレ・イシクレール老人を捜し、彼から世界の秘密を受け継ごうとするポピュロ、ベベール、マン・デルカ、ラネクドット一行の冒険の物語である。サント=マリー、マリゴ、グロ=モルヌといったマルティニック北部の丘陵地帯(モルヌ)が冒険の舞台だ。
 本書は、語り手の「私」が語り部捜しの顛末を「シャモワゾー」に語り、それを聴き手が書き起こす、という体裁をとっている。この幾重にも重なる聞き=語りの戦術のなかで、「私」と称して語っているのは誰なのか。「私」は次のように述べる。
 「私は『私』と口にする。でも『私』と述べるから自己の何某かが示されているかというと、そうではない。ここが、『私』の難しいところさ。」
 じつは、「私」には、オスファル・テルチュリヤン・フィロジェーヌという名前がある。だが、「私」によると、一人称で話すのは単にそれが便利だからにすぎず、「私」の内には「私たちのありとあらゆる声」がある。ここでもまた、「私」は「いくつもの他の声」によってとりつかれているのである。
 本書末尾の「筆写ノート」にあるように、本書は、本連載第三回目(三四九六号)で触れたシャモワゾーのエッセイ『語り部、夜、籠』から派生した小説である。あるインタビューによると、著者は『語り部、夜、籠』を執筆しつつ、語り部が死んだ時、彼らの知はどうなるのか、と考えたという。この問いから生まれたのが本書であり、つまるところ、そこで問われているのは「継承」なのである。本書のエピグラフとして掲げられた次の言葉は、そのことをよく物語っている。「戦士は問う。でも、おじさん、この困難な時代に何を継承するんだい? 継承できないものをだよ! と語り部は笑った。」
 では、「継承できないもの」とは何だろうか。「私が描く語り部の老人が姿を消す時、たとえそれが不可能であろうとも、何か、継承の秩序であるようなものを保とうとしなくてはなりません。その何かとは、美的な経験です」。最新作を巡って、シャモワゾーはこのように語っている。「継承できないもの」、しかしこの困難な時代にあって継承しなくてはならないもの。それはノウハウではなく、冒険の途上で一行が経験する感性の共振なのである。
 「継承」は作家本人がテーマとしてきた問題系だ。シャモワゾーは、デビューして間もない一九八六年、何人かの語り部の老人たちと出会い、彼らの語りを集めた。この出会いから生まれたのが、一九八八年の小説『素晴らしきソリボ』である。カーニヴァルの夜、ソリボは言葉に喉を切り裂かれて死んだ。文字の世界は、ソリボの死を「事件」として説明し、回収してしまう。だが、ソリボの語りを愛した聴衆たちのおしゃべりは文字のうちには回収され得ない。小説である以上、この語りの世界へと近づくためには書き言葉を読むしかないのだが、語りの世界と文字の世界のあわいに立ち顕れる驚異こそがシャモワゾーの文学の魅力だろう。
 声の世界と文字の世界。この二つの世界が鬩ぎ合う境域こそが、カリブ海における「継承」の場であリ、美的経験の場である。二〇一七年にマリゴで亡くなったマルセル・ルビエルも、そのような境域に身を置き続けた一人だった。ルビエルは、小学校の校長をしつつ、「コンテ・サンブレ」というグループを立ち上げ、語り部たちの声を残すための活動を行なっていた。口から口へと継承されてきた語り部の伝統は、多くの伝統芸能がそうであるように、消滅しつつある。ルビエルの仕事は、聞き書きという形でこの消えつつある声の伝統を繋ぎ止める試みだった。シャモワゾーの新刊は、そんなルビエルの思い出に捧げられている。

 声と文字の鬩ぎ合い、「私」と「私たち」の縺れ合いを、『代書人』(一九八三)で描き出したモロッコの作家ターハル・ベン・ジェルーンの短編集『世界でもっとも美しい国で』がやはり一〇月に刊行された。集められた一四編のテクストは、どれもモロッコを舞台にしている。
 「東風」は、モロッコ北部、ジブラルタル海峡に面したタンジェの人々を描いた一編だ。金曜日に「東風」がやってくると、街に狂気がもたらされる。この不気味な伝説をなぞるように、整骨師の女性ナワルは恋人に「愛の物語を書いて。でなければあんたを殺すから」と言い放ち、狂おしい気持ちに苛まれる。だが、恋人のサレムは愛の物語ではなく、イスラム原理主義者の物語ばかりをノートに綴っている。この二人を軸に、タンジェにかつて住んでいたビート・ジェネレーションの作家たちの思い出や、外国人の老人を惑わす男娼の少年の死、あるいは二〇〇三年にカサブランカで起こった同時爆破テロなど、人々の雑多な生や痛ましい記憶の断片が、モザイク画のようにタンジェの姿を浮かび上がらせる。ともあれ、「東風」が去った後、サレムはナワルに次のような物語を語るだろう。「昔々、暖かくて遠い所に、世界でもっとも美しい国がありました……。」
 一九四七年にモロッコで生まれたベン・ジェルーンは、一九七〇年代に故郷を去り、以降フランスを拠点に作家として、また最近は画家としても活躍している。今年の春に行われたベン・ジェルーンの展覧会の様子は、『語の色彩』と題して書籍化されている。言葉を通して、また、色彩を通してベン・ジェルーンが提示しているのも、あの継承不可能な何か、つまり、美的な経験ではないだろうか。

 コンフィアン、エルノー、シャモワゾー、ベン・ジェルーン……現代フランス語圏文学の綺羅星のような作家たちの仕事を逍遥してきた。本稿を執筆しているのは一〇月末だが、数日後にはゴンクール賞も発表される。最終候補のなかには、一九八三年生まれのハイチ人作家マケンズィ・オルセルの小説『人間大全』が含まれている。ハイチの老婆が自身の来歴を語る『動物の影』(二〇一六)、フランスの片田舎を舞台に、死んだ女性が自らの生を語る『人間大全』、そしてまだ見ぬ次作からなる壮大な三部作を作家は構想しているらしい。じつはオルセルの新刊は、カリプソ書店の店主が薦めてくれた一冊だ。パルマンティエ通りの小さな店舗を思い出しながら、六〇〇頁を超す大長編を私はいま読んでいる。
 付記。本稿の校正中、本年度のゴンクール賞が発表され、ブリジッド・ジローの『生き急いで Vivre vite』が選ばれた。夫の事故死を振り返る「自伝」的作品のようだが、筆者は未読であり、書物の洪水を実感している。
(フランス語圏文学)







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